文:見る 「Cold Caseとコールドケース」

海外ドラマにハマって数年経つ。ハマったのは結婚後だ。理由は、当たり前だが独身の頃とは生活スタイルが変わり、2時間程度を要する映画を1本見るという時間が、1日の中で取れなくなったためだ。ドラマ鑑賞は、その穴を埋めるための、致し方のない選択肢でしかなかったので、最初はそれ程乗り気で見ていた訳ではなかった。しかしながら、当時はDlifeがあったため自由にいろいろと、毎日見ることが出来、そのうち段々面白くなり、気がつくとひかりTVに入っており、そのままずぶずぶと沼にハマった、といった格好である。

 

ああ、Dlife。私の生活にどれ程の潤いを与えてくれたことだろう。あの時に見た「CSIマイアミ」「メジャークライム」などは、今でもひかりTV各局で再放送の度に眺めていたりするし、最愛の海ドラ「エレメンタリー」を最初に教えてくれたのもDlifeだった。ドラマだけじゃなく、イギリス発お菓子作りコンテスト「ブリティッシュベイクオフ」にもドハマりし、今月からFOXチャンネルで始まった再放送のシーズン4を、毎週末心待ちにしている(1回見てんのに)。また、ベイクオフがあったからこそ、現在EテレでOA中の、同じくイギリス発お裁縫コンテスト「ソーイングビー」も、これまた再放送まで録画して見る程、楽しみにしている。それもこれも、全てはDlifeがあったからこそ。

 

その、Dlifeで初めて見た海ドラの中に「コールドケース」がある。確かシーズンの後半の方からだったと思うが、そのうちlalaTVで全話見られることを知り、こちらもひかりTV経由にて再放送の度に見ている(だから今も見ている)。主人公リリー・ラッシュはじめフィラデルフィア市警の面々のキャラ造形が素晴らしく、1つ1つのエピソードも際立ったものが多く、何より各話の時代を彩る挿入歌に心からシビれる。話の内容に沿った、それぞれの事件の起こった時代を想起させる、よくは知らないがどっかで聞いたことのある曲がかかると、とにかく胸アツになるのである。いろんな意味でよくできたドラマの一つである。




 

海ドラのリメイクというのは結構人気らしく、記憶に新しいと言えば日本版の「スーツ」「グッドワイフ」辺りか(その出来は…言わないでおく)。「知ってるワイフ」日本版はまさに今OA中か。ああ、日本版「24」もまだ続いてるよね。前出のlalaTVで、韓国版「クリミナルマインド」を見たことがあるが、味わいがまた違って面白かった。日本のドラマもいくつか海外版になっているし、「グッドドクター」にも韓国版が確かあったはず。そういえば、関係はなさそうだけど、以前OAされた「病院の治し方」という日本のドラマは、「ニューアムステルダム」を彷彿させる。Hulu発の日本版シャーロックホームズもあったっけ。イギリス本家版シャーロックはオトコ2人、アメリカ版エレメンタリーは男女、日本版ミスシャーロックは女子2名ってのも楽しい。比較文学論が好きな私は、個人的にリメイクドラマは歓迎だ。

 

で、「コールドケース」だが、こちらは日本版がWOWOWオリジナルドラマとしてこれまでに3シーズンがリメイクされている。当然まるっきり同じではない訳だが、本家コールドケースの大ファンとして言わせて貰うと、日本版は、各話とも大変意欲的な内容で、全て優れたリメイクであると思う。




日本版コールドケースについて語ろうと思ったのには訳がある。先日、シーズン3が最終回を迎えたのだが、ドラマ鑑賞後に配信限定の俳優陣プチトーク番組を見た際、「この先続くかどうかは反響による」的な話をしていたので、たとえひとつでもネットに記事が落ちていれば、反響としてカウントされるんじゃないだろうかと思ったからである。WOWOWさん、お願いですからどうかどうか、シーズン4を作って下さい。

 

とはいえ、見た方ならお解りだろうが、シーズン3のラストは、もうあれで完結なんじゃないの?という感じになっていたのは確かである。本家・リメイク共に好き、という私のような人ならなお、おおよそではあるが、内容は、日本版シーズン1=本家シーズン12、日本版2=本家34、日本版356、という流れが見えているかと思うので、あと残ってんの本家の7しかないじゃん、と思われるだろう。だがしかし、リメイクされたエピソードは本家のまだまだ一部であり、今後も日本版を続けることは十分可能である。

 

ではあの日本版のラストは?について。ここから思いっきりネタバレして書くのでご了承を。日本版シーズン3のラストエピソードでは、百合の妹、沙耶が、シングルマザーになっており、息子を連れて百合の元を訪ねるも、あれよあれよといううちに検査⇒入院⇒危篤、となり、息子を残して他界する、という筋書きであった。最後のシーンで百合が、百合にしか見えない沙耶に向かって(コールドケースのお約束)、抱っこした甥の背中をぽんっと叩いて「よっしゃ、まかしとき」とでも言いたげな表情をするのが非常に印象的だった。

 

本家では、リリーはラストシーズンの7で、FBI捜査官の男と一瞬だがいい仲になる。その後フィラデルフィアに戻り、誘われるまま自身もFBIに移ろうかと考えた矢先に、妹クリスティーナが事件に巻き込まれ、シーズンファイナルを迎える中で、彼女を何とか救出し、初めて見る妹の子供に驚きつつも、最後には、ああきっとリリーはFBIには行かないんだなと見る者に思わせる表情を浮かべる。その時乗っているのが相棒スコッティの車であるというのも、見る側に今後の2人をいい意味で想像させる。つまり、本家では、違う意味で命が危なかった妹は助かるのである。で、ここから勝手に考えてみたい。何故日本版ではそうしなかったのか。

 

リリーとクリスティーナ、そして百合と沙耶の母親がかなりひどいものだったという設定は、本家日本版合わせて様々なところでお目見えする。アルコール依存症で、子供のご飯代を自分の酒代に代えてしまうような母親である。本家ではそれだけでなく、その母親を置いて父親が家を出てしまったということになっている。残されたリリーは何とかサバイブし刑事になるが、ある日母親エレンが登場し、4度目の結婚をするのでブライダルメイドを務めてほしいととんでもないことを頼みに来る(シーズン3)。その後、母親はその男に振られ、再び酒浸りの日々を送るようになる。いくら隠してもいくら捨てても、母は酒をやめられない。リリーは半ば呆れながら時々罵りながらも、自身と共に暮らすことを提案し、献身的に母親に尽くす。母親の身体はすっかり酒に蝕まれていたからだ。小さい頃に持っていた「ビロードうさぎ」という絵本などの話を巡る、リリーと母親の束の間の優しい時間は過ぎ、ある日、リリーの仕事中、母親は看取られることなく部屋で息を引き取る(シーズン4)。

 

思うに、日本版コールドケースのシーズン3で沙耶が亡くなるのは、この、本家で母親エレンが亡くなることと被っているのではないか。百合にとっての、この上なく迷惑で、この上なく大切な妹が、本家での母親とすり替わっていてもおかしくはない。勿論、製作者にこの意図はなかったにせよ、まあ昔取った杵柄で、テキスト論として考える事を許して貰えるなら、こんな解釈も可能ではなかろうか。

 

本家シーズン518話「幻」を題材にした日本版シーズン3最終話「母の条件」において、事件の被害者兼主人公ミヤビが自分の幼い娘を抱きながら、薬物をやめられなかった母親チヅルに語るシーンで、ウサギのぬいぐるみがモチーフになっているところからも、本家のリリーとエレンの関係が伺える。(ところでこのチヅル役の神野美鈴、鳥肌が立つほどの名演技だった。ずっと、可愛い声の女優さん、くらいに思っていたので、とんでもない逸材だったのだと今頃知った。)

 

もう一つ、百合が沙耶の子を引き取り、シングルマザーとして今後生きて行くだろうという設定は、本家でトレイシー・トムズが演じていた、シーズン3からのレギュラーキャラ、キャットを彷彿させる。このキャット、結構ファンが多かったらしく、これがきっかけだったかどうかは忘れたが、トレイシー・トムズはこの後タランティーノの映画に起用されている。キャットはシーズン全体においては後半に登場したキャラだが、邪魔にならず、かといって存在感がない訳ではなく、非常に貴重な存在であった。他の登場人物では出し得ない、何とも言えない味があった。だから個人的に、日本版にキャットに当たるキャラがいないのは少々物足りなく感じていた。そこに、主人公の百合がシングルマザーになったという設定である、今後続けない選択肢はないのではないか。もし百合がキャットの分まで設定として含むのなら(キャットの子供はヴェロニカという娘だったが)、それはそれでまた面白くなるのではないだろうか。

 

従って、今後、日本版コールドケースはいくらでも続けられると思うのである。WOWOWさん、どうぞよろしくお願い致します。そして、コールドケースに関するワタクシの与太話はまだ続く。

 


さて。日本版コールドケースに関して、「原案なし」と書いてあるものがいくつかあるが、モチーフはあるんじゃないのかと思われる。

 

シーズン33話「女優」だが、モチーフとして本家シーズン43話「ライター」が考えられる。まず、鍵となる物証がライターである点、非常に古い事件だという点、被害者ドノヴァンには、肌の違いや既婚者という壁があった、つまり結ばれぬ運命にあったが互いに思い合っていたアリスという未亡人の女性がいた、という点(これは日本版では被害者ではなく犯人に近しい側であったが)。本家の犯罪のテーマは嫉妬。日本版では純愛の方にライトが当たっている。筋書きは違うが、題材としてはこれが大元ではなかろうか。冒頭の白骨化した死体が上がる場面も台詞を含め非常に似ている。

 

同じくシーズン39話「故郷」は、本家シーズン511話「封筒」に共通点がある。被害者は、第2次大戦中に日本人捕虜収容所にいた男性。息子も共に入所していたが、父親には反発を感じるようになる、といった点がモチーフではないか。本家でも日本版でも、殺そうと思って殺した訳じゃない、という辺りも共通している。外国人との共存がテーマである点も同じだ。

 

また、日本版シーズン26話「バブル」は、ヤクザと歌手志望の女性の淡い心の通い合いが悲劇に繋がるという話だったが、やや強引なことを承知で言うと、本家シーズン68話「歌姫」がモチーフになってはいないだろうか。本家の被害者は一家で亡命してきたロシア娘。音楽学校に通ううちにそれまで歌い続けてきたオペラ以外の音楽に触れ、次第にそちらに惹かれて行く。それに反対し続けていた父親が加害者かと思われたが、犯人は、彼女を指導する音楽教師の元恋人だった、という話。本家キャラの1人、ヴェラ大活躍のエピソード。対する日本版では、歌姫になる夢を持った少女を守りたいと願い続けた男は、出所後彼女を殺めた犯人を捜す。自分をも陥れた親玉を疑うも、本当の犯人は、自分を最も慕い続けてくれた子分だった。うーん、これじゃないかなあ、原案。本家では、シンディ・ローパーのtrue colorsが実に印象的に使われていたっけ。

 

日本版シーズン21話「学生運動」も原案なしとされている作品だが、モチーフとしては本家シーズン116話「ボランティア」かと思われる。白骨死体は本家では2体で日本版では1体だが、冒頭シーンはよく似ている。ただ、「学生運動」に出てきた、「海外からお金が送られてくる」という筋書きを、どっか別の話で見たような気がしていて、これがどうもうまく見つけられないので、見つかったらこの記事を書き換えようと思っている。

 

原案は上がっているが、「これも原案でもいいのでは?」と思った作品があったのが、日本版シーズン23話「PKO」。原案として本家シーズン214話「ヴァレンタイン」と38話「英雄」がクレジットされているが、シーズン42話「義手」も入れて頂きたい。右手を失ってイラクから帰還した、被害者となる主人公デイナが、同じくイラクで夫を亡くした妻になじられるシーンがある。そしてその後2人の仲が元に戻った際に、デイナは彼女からミーティングに誘われる。しかしその時のデイナは、自分の心の傷に目を伏せたままである。ここは、当人と配偶者の違いはあるが、日本版でも同じようなシーンがある。また、デイナの夫が誘惑され浮気をする辺りも、PKOに似通っている(PKOでは浮気にはならず、横恋慕されるにとどまるのだが)。「ヴァレンタイン」も「英雄」も悲しい事件だが、この「義手」は、デイナが最後には前を向いて生きて行こうとした矢先に事件に巻き込まれるので、見ていて余計に切ない。

 

また、モチーフのみだが日本版シーズン310話「母の条件」で、子供の遺体を冷蔵庫に隠していたというのは、本家シーズン58話「ゲーム」に似た場面がある。こっちは自分の娘ではなかったが。

 

このように様々に比較して見ることが楽しみの一つになってしまう程、どちらのドラマも大変うまく作られている。だからこそ続きが見たい。キャットの役割を担った日本版リリー=百合に、今後どのような変化が起きるのかにも興味があるし、配信トークでも出てきたが、ジェフリーズ=ネコさんの、妻を巡るエピソードも見てみたい(悲しいけど)。吉田羊は「日本版に恋愛要素はいらないんです」と言っていたが笑、本家のリリーは吹替を担当している田中敦子さま(「エレメンタリー」のワトソンで惚れました)も言っているように、「意外と恋多き女」なので、やはりその辺りも少し期待したい。キャットは、本家シーズン6辺りから、署に出入りする気のいいバツイチ弁護士といい仲になるので、恋の話があってもいいじゃないかと思う。




 その他の日本版で見たい話としては、個人的にはもう母親の話はいいから(沙耶≒エレンだと思うので)、父親との話を見てみたい。本家では、リリーは家を出て行った父親と心を通わせるようになるまでに結構時間を要するが、その後、父が現在共に暮らしている家族=バツイチの妻とその連れ子であるティーンの息子、とリリーが交流をしていくようになることが伺えるシーンがシーズン7にあり、これが実にいい。特に、リリーと父親とティーンの息子の3人が車でてんでに言い合いをする場面が楽しい。また、その言い争いを突き破ってカットインして来る、父親の現在の妻が、これまた実に味わい深い人で、この、父親が新しく作った、一見リリー自身とは全く関係のない人達と繋がることで、初めてリリーが家族らしいものに恵まれるのだなと見て取れる。これ、日本版でもやってくんないかなあ。もし百合に恋愛話がないのなら、せめてこういう幸せを味わって貰いたい。

 

それと、個人的に凄く好きだったのが、キャットがレギュラーになる前にシーズン3に数話登場した、ジョジー・サットン。本家「コールドケース」は全編通して、女性の生きづらさやもがきのようなものが描かれているのだが、サットンはそれを見事に体現した貴重なレギュラーキャラだった(数話だったけど)。勿論リリーもキャットも同じような部分があり、台詞にも出て来るが、サットン程の悲劇性はない(リリーはその他では相当悲劇的)。強くて美しい女だからこそついて回る悲劇がサットンにはあった。スコッティに好意を寄せられ、自身も好きになりかけていたからこそ、彼女は最後のシーンで彼に爆発する。「どうして女だけが」と。実に切ない。キャットが登場するのは嬉しかったけれど、サットンは余りにも呆気なくいなくなってしまった。だからこそ、彼女の持つ悲劇性が浮かび上がってくる。



 

そうそう、配信トークで出てきた「結婚式」だが、これはきっと、本家シーズン715話「花婿」の事だろう。本家で準レギュラー化している爆弾専門の鑑識課・ルイの結婚式の話で、事件でも何でもない結婚式で、ルイの花嫁にまつわる過去の事件をほじくり返してしまうという、ちょっと珍しいストーリー。リリーが普段と全く違う、可愛らしいグリーンのミニワンピースに白いハイヒールで登場すると、一気に場が、というか画面が華やぐ。これも日本版見たいなあ。

 

日本版で見たいシリーズ更にもう一つ。本家シーズン312話「遺書」の、カート・コバーンを尾崎豊に書き換えてドラマ化できないだろうか。私の中では実はもう出来上がっていて笑、最後にかかるのは、「I love You」でも「卒業」でもなく、絶対に「誰かのクラクション」。心から愛されたことがあるかって聞かれた。一緒に探してたものならあった気がする。どうだ。号泣間違いなしではないか。

 

その他、日本版アレンジを見てみたいエピソードを挙げると。

シーズン120話「取引」

シーズン322話「ポーカー」

シーズン48話「ホタル」、第9話「デート・サービス」、第12話「ファイトクラブ」、第18話「宝くじ」

シーズン55話「詐欺師」

シーズン66話「クラシックカー」、第9話「ピンナップガール」、第13話「ニュースキャスター」

シーズン71話「機関室」、第12話「私立探偵」

辺りだろうか。

 

あとね、絶対実現しないだろうけど、本家の吹替えを担当してくれた声優陣が絡むような話は出来ないかなあ。ファンには垂涎ものなのだけど。



 

最後に、もしも日本版ニューシーズンが実現するなら、1つだけリクエストを。今回見た最新日本版シーズン3において、たった一つだけ満足しなかった点がある。それは選曲だ。ドラマ「コールドケース」の第2の命とも言うべき、それぞれの時代を代表する歌のセレクト。本家では、何度も見てすっかり知っているストーリーだったとしても、エンディングの曲がかかると台所をほっぽってテレビに見入ってしまうことが何度もある。今回の日本版シーズン3は、その前2シ-ズン程の感動が選曲になかったことは、言いたくはないが言わざるを得ない。それぞれの時代の、耳障りのいい素敵な曲が多かったとは思う。ワンオクやスピッツ、ミスチル、バンプ、安室、ファンモンなど、今聞いても全く遜色ないヒット曲の数々だ(特にミスチルとワンオクは恐らく製作者の好みだろうが、シーズン1、2でも多用していた)。しかしながら、コールドケースだからこそ、やはり、今聞いても遜色ない歌だけではなく、「あああの時代これがあったね!」というような、レアな選曲もして貰いたかった。例えばシーズン2YEN TOWN BAND、猿岩石、「DAYONE」、シーズン1UA、ハイスタ、そして洋楽のフランツ・フェルディナンド、レディオヘッドなどのような(私は本当はBzファンなので、シーズン22曲起用された時には本当にうれしかったのだが、Bzだけかけろという訳に行かないのは解っている笑)。先日このことについて夫と話をし、こんなのがかかるといいね、と出てきたのは殆どが8090年代のミュージシャンだったが、どれも懐かしく、またインパクトのある人達だった。大沢誉志幸、崎谷健次郎、バービーボーイズ、横山輝一、辛島美登里、中原めい子、久宝瑠理子、山下久美子、小比類巻かほる、WANDSZIGGYTMネットワーク、久保田利伸、岡村靖幸、中西保志、古内東子、村下孝蔵、大江千里、スターダストレビュー、杉山清貴、浜田省吾、角松敏生、シャ乱Q、爆スラ、KUWATA BANDBOφWY、ブリグリ、オリラブ、プリプリ、バブルガム、フライングキッズ、フェンスオブディフェンス、たま、キリンジ、エゴラッピン。ふり幅半端ないな。でもまだまだ出て来る。どうだろうか、その、今の人達もよく知っている馴染みのミュージシャンだけでなく、こういった素晴らしい過去の曲達にもスポットを当てては貰えないだろうか。聞いたらパッっと解るくらい懐かしくどこか目新しい、そんな選曲を期待している。

 

好きなものを語るとどうしても熱く、いや暑苦しくなってしまう。それでも語らずにはいられない程の愛情をもって、このドラマを、本家日本版共に、愛で続けて行きたい。長々と書いた記事をここまでお読み頂き、感謝限りない。 

 

短歌: 学ぶ

 明暗がくっきり見える口元に受験は世間の縮図だと知る



甘い事言ってるようじゃ悪いけど追い抜いてく、と高3カップル




燃えたぎる気持ち隠して受験日にマイナス4℃の空を見上げる





文: 思う 「私を愛した(かどうかは解らないが少なくとも私は愛せそうな)テスト」

趣味と実益を兼ねて、というか、ある意味仕事なので、少なくともここ10年以上、毎年1月には大学入試センターの作る英語(今年からは「リーディング」と「リスニング」の2つ)の試験を解いている。名称が今年から変わったので前出のような書き方をしたが、実際英語は、世間に広く知れ渡っているように、中身も様変わりした。

 

こちらも周知の通り、ここに至るまでには紆余曲折があり、その道中において、外部の検定試験を使うのか使わないのかとかいったすったもんだが相当あった訳だが、これは今日話したい内容とは若干ずれるので、とりあえずあっちに置いておくことにする。

 

所謂「センター試験」が「変わるんだよ」とアナウンスされてから2度、当時の現役生に対して「試行テスト」というものが行われた。今年初めて行われた、これまた所謂「共通テスト」は、これを、特に平成30年の第2回目の試行テストをオオモトにして行われる(はず)、というのが一応のセオリーで、受験生は皆、そして指導者も(多分)皆、試行テストを舐めるように見尽して共通テストに臨んだ、と思う。

 

共通テストには最初から批判があった。とりわけ、それまで毎年お目見えしていた文法に関する問題が姿を消したことについては、様々に話題に上ったと記憶している。文法問題がそれ程得意ではない学生達はこの変化を大歓迎し、逆にコツコツと文法問題を解くことが嫌いではない学生(がいるとすればの話、だが)は、一抹の不安を抱えた、かも知れない。実際、昨年の秋頃には、恐らくどこでも殆どの学生が長文読解に多くの時間を費やしており、その頃に文法問題集を開くような学生はまずもって見当たらなかったろう。

 

共通テストに先んじて行われた2回の試行テストは、大問6つ全て文章題で、中には内容が薄く思えるものがあったのも確かである。例えば平成29年の第1回試行テストの第2問。完全に食〇ログだなと思わせるレイアウトに、その店を利用した人の感想やら写真(と思わせたいんであろうイラスト)やら★やらが並んでいる。狙いは、正式な文章になっていないものを読んで意味が解るかどうか、ということであろうが、何せ食べ〇グだからw、たとえ高校生であってもなんとなく解ってしまうというか、何でこれなの?というかw、まあ悪問とまでは言わないけれど、意味あるのかなと首をかしげたくなる、もっとぶっちゃけ言えば、時代に、世代におもねるのもいい加減にしなよ、というか、まあそんな風に思った記憶がある。

 

なもんだから、この頃は私も、共通テストなんかにわざわざ変える意味あるのかな、センター試験のままでいいじゃないか、と公言して憚らなかった。周囲の人達も皆同じ思いで、しかも、これは予想だに出来なかったにせよ、ウイルス跋扈の世の中になっちゃったもんだから、決まったこととはいえこのタイミングで共通テストにチェンジするのって受験生にとって可哀想過ぎない?というのが大方の意見だった。

 

が、受験生を甘く見てはいけない。今年の共通テストの英語の平均点は、前年と大きく変わることはなく、むしろリーディングは前年の英語(筆記)よりもいいくらいであった。どの学生も皆全力を尽くし、限られた時間と条件の中で、自分に出来る事を徹底して行った結果だろう。受験生よ、可哀想だなんて思っててごめん。君達のポテンシャルは我々の想像を大きく超えて羽ばたいた。完。あ、違うw

 

話を戻そう。センター試験から共通テストに変わり、リーディングから文法問題が消えたことにはちゃんと理由がある。その一つが、「代わりに、リスニングで文法問題が出題されるようになったから」である。新聞などで試験問題を見る人はリーディングしか見ていない人も多いかも知れない。リスニング問題も新聞に同じく載っており、スクリプトもついているのだが、各新聞社のサイトに行き、音声まで聞いて確認する人は余り、いや殆どいないだろう。もしも、文法問題が消えたことをお嘆きの貴兄貴姉がいらしたら、是非ともこのリスニングに挑戦して頂きたい。実は、人間、「読んで解るものは聞いても解る」、とは限らない。たった1,2回、ペラペラっと英語で文章が流れて、しかもそれが文法的にクセのある文章(時制や使役動詞などがネックになることが多い)で、どんな意味だったのか一発で正確に把握するのは慣れないと至難の業である。英検やTOEICなどに興味があるという人ならば難なくこなせるかも知れないが、ブランクがある人がトライしようとすると、恐らく「もう一回聞かせて!」となるはず。読むのは自分の力に合わせて無限回数で出来るが、聞くのはあちら側から回数に制限がかかる。自分ではどうしようもない分、ハードルは高くなっているのである。

 

だから、リーディングで文法問題が出なくなっても仕方ない、という意見に転びそうな物言いでここまで来たが、実はそこはそうではなく、個人的に、共通テストリーディングにも、文法問題を是非とも復活させて頂きたく思っている。

 

先程も言ったが、受験生の中には、共通テストに文法問題が出ないとなると、大胆にもそこを出来る限り端折って済まそうとする輩がいる。例えば「ヴィン〇ージ」のような総合問題集を1冊、出来るだけ何周も解いて受験に臨むというのがこれまでのスタイルだった訳だが、そこを端折る。高2までで散々、学校の小テストや定期テストでこのテキストに泣かされてきた学生達は、当然のことながら、出来るだけ早く別れを告げたくて堪らないのだ。それが実は長文読解で命取りになるとも知らずに。勿論、中にはこういったテキストに頼らなくても何らかの方法で実力をつけていく人もいるのかもしれない(あんまし見たことないけど)。が、フツーの学生であれば、総合問題集をマスターする前に見切り発車で長文読解に移行すると、正確に読む力がつかないのが通常である。

 

そして文法が解らないまま年を重ねて行くと、一番困るのは本人であろう。現代において、どんな若者でも日々縁があるのはデジタルディバイスであり、SNSである。ちょっとインスタなんか覗きに行こうものなら、たとえネコちゃん動画目当てであっても、日本語より他言語の方が盛大に飛び交っている。もしも英語だけでも多少解っていたら、確実に世界は広がる。その時、ちゃちゃっと読んで内容を知ったり、場合によっては返信するだけの文法力・作文力が絶対に必要なのだ。

 

暫く前に同僚と話した時に、若い彼は言っていた。これからの時代は、英会話じゃない、英作文だと。書けさえすれば、ネットで必ず誰かと繋がれるし、話している時ほど「間」を気にしなくてもいい。言い直しはしにくいけど、書き直しは(気づきさえすれば)出来る。まずは書いてあることが読める力、その次は書く力だと。禿同だ。読みと書き、なんて一見時代に逆行しているように思われるかも知れないが、1周まわって元に戻った、くらいに考えて貰えればいいと思う(どういうことだよw)。従って、今後若い人にインターナショナルな(死語?)力をつけて貰いたいなら、文法力は不可欠であると思う。そのためにも、読解だけでなく、文法問題の復活があるといいなと思う(文法問題だけやってれば作文力がつくのか、というのはまた別の問題ってことで)

 

では、共通テストがセンター試験に比べて劣っているのか、というと、私は実はそう思ってはいない。いや、正確に言うと前出のように、試行テストまではそう思っていた。が、実際に今年の共通テスト問題を読み、解いた段階で、意見が変わった。欠点がないとは言わないが、私は、公開になった1回目、2回目の試験共に、よく練られた問題だったと思う。さすが、大学入試センターも、今回は特に批判に晒されることを百も承知だったからとはいえ、本当に天晴な作問が多かった。

 

世間からは批判が多いのは無論承知だ。新聞でも、識者のインタビューや一般からの投書などが散見され、センター試験に戻すべきだとか、共通テスト英語に解答することは単なる情報処理の訓練だとか、あれでは学校で教えていることが生かされていない、といった意見が見られた。そこであえて言う。学校で教えていることとは一体何だろうか。

 

いや、答えの一部は解る。例えば物語、人が主人公の伝記ものといった深いジャンルを教わる時、生徒達は、生き方だったり、考え方だったり、その主人公が成長する上での、或いは成功する上でのモットーであったりという、何か我々個々人が人間として生きて行く上での大切なメッセージのような、そういったことを学ぶのではないだろうか。それは正しい学びだと思うし、それに対して批判はしない。そういった読解は学校という場において、即ち教育という場において不可欠であり、その読みもの触れた生徒も何らかの成長をする、はずであろう。

 

私もかつてはそれと同じように考えていた。同じように考えていたからこそ、こう思っていた。深い読みを教えたり教わったりしても、センター試験がこんなんでは何にもなんないじゃん、と。中身が浅いのは今に始まった話じゃない。センター試験の頃だって,負けず劣らず情報処理能力を問う問題が増えていたし、中には内容もかなり浅薄なものがあった。

 

心の底から文型の私は、第5問という長文で、その年のセンター試験の良しあしを勝手に決め込むという悪い癖があった。中でもワタクシ的に傑作中の傑作(最悪な意味で)だったのは、2017年筆記の第5問。もしもお手元にあったら是非ご覧になり、出来ればお読みになって頂きたい。英語自体は平易である。と言っておきながら早速ネタバレすると、「いやあ参ったよまさかの夢オチ」ってヤツで、こんなの厨二病でも書かないよってくらいチープな内容であった。大体書き出しが

Ahhhhhhhhhhh!

だもんね。漫画かよ。いや、そこを狙ってんだとしても、安い。余りにも安い。他にも、ここまで酷くはないにせよ、2014年の第5問などは、じいちゃんと孫娘のお涙頂戴節で、これも安いっちゃ安い。この、第5問は少しの間、読む側に一定の情報処理能力を要求するダブルパッセージ問題だったのだが、文科省の指導要領が変わったことを受けて(と聞いたと記憶しているが)2016年から物語調のシングルパッセージになった。急に変わると最も対応が早いのが受験出版業界で、この年に行われた各社の模擬試験の第5問には、それはそれは見事な内容と文章の、ネイティブの書いたものが元ネタに使われた問題が続出した。一つの読み物として読んでも全く遜色なく、うーんいいなあって思ってしまうくらいの文章が並び、今考えてもこの年の模擬試験は傑作揃いだったと思う。勿論いい意味で。


がしかし、本家本元が2017年に出したのが、先に登場した「夢オチ」問題なもんで、ここで気が抜けたのか腰を抜かしたのかは知る由もないがw、この後の模擬試験第5問は、この夢オチレベルの内容の、ネイティブの文とは遠くかけ離れた、先の展開の予想のし易い、言ってみれば面白くも何ともない英文が出題されることとなった。

 

出典の問題などで、恐らく大学入試センターは、オリジナルの文を作らざるを得ないのだと思う。だとすれば何もこんな、ク〇つまんない物語的な(「的」ですから)もんじゃなくて、いっそ全部説明文にしたらどうか、なんて思ったことがあるくらい、私は上記の問題にひとりひっそり疑問を呈していた。

 

しかしながら。何十万人もが一気に受験する試験において、「夢オチ」長文のような誰もが英語の読みさえ間違わなければ不正解しようがない問題とは真逆の、深い読みを必要とする内容の物語が「英語で」出題されることは、本当に必要なことなのだろうか。


若い頃は私もこんなことは考えなかった。読解とは深く読むことであり、単なる情報処理とは訳が違うと考えていた。が、年を重ね、様々な経験を積んでくると、若かりし頃の矛盾にも自ずと気づくものである。

 

昔から読書感想文は比較的得意な方で、学校で取り上げて貰う事もしばしばあった。ある時、私の感想文を代表にしたいと国語の先生に言われた。が、何度目かの直しの後、私の感想文は私のではなく、先生の感想文になっていた。母はそれを見て、「これじゃあんたの文なんか1行もないじゃない」と言って憤った。


先生の中には「こう書いて欲しい」という先生独自の、国語的に正確なツボ=解釈があり、それを私に求めたのではないかと思う。だとしたら何故私の文を選んだのか。もっと自分の色に染まりそうな生徒の感想文があったろうに。結果として、私の名前の付いた国語の先生の感想文は、コンテストで思い切りボツった。その後の事はもう記憶にないが、ものすごくスカッとしたことだけは覚えている。

 

前職についてまだ間もない頃、映画好きのある学生と縁があった。彼は所謂至極普通の、どこにでもいる素行の余り宜しくない部類の男子だったが、ある時「トレインスポッティング」の話になった。彼は本当に嬉しそうにラストの場面の話を始めた。「俺はさ、あそこはさ…」彼の解釈は、一般的にはそうは取られていない解釈であった。もしかしたらそれは、「間違い」だったのかもしれない。しかし私はふと、「そうだね、そう考える事もできるね」と返事をした。彼は「うん、そうだよね。俺はそう思う」と言って笑った。テストじゃないのだ。余程のことがない限り、自由に感想くらい持ったっていいのではないか。咄嗟にそう思ったかどうかは自分でも思い出せないが、大体話題に上った映画はあの「トレインスポッティング」なのだ。どんな解釈をしたって許されるような気がした。





T2見てないんだよなあ。でもジョニー・リー・ミラーはいつも「エレメンタリー」で見てた。


つまり、だ。正確な解釈や、主人公の心理などといった国語的領域について、英語で、しかも入学試験で問う、というのは些かお門違いなのではないだろうか、と今の、年食った私は考えるのだ。感想や心理考察といった分野には当然主観が入り込み、それは勿論ある程度幅があるとしても、ある一定の枠の中に入らないものについては「間違い」とされる運命にある。それを否定はしないにしても、それはあくまで「国語」の領域なのだ。だとすれば、そのレベルに行く前に、我ら日本人の英語力自体を計るべきであり、そのためには、まずは「正確な解釈」=英語が読めるのか、に焦点を当てるべきなのではないだろうか。

 

もう一つ、今年の共通テストリーディングの内容にお嘆きの貴兄貴姉には今一度、第1回・第2回共に、第5問をお読み頂きたい。これは私が、今年の共通テストは試行テストを完全に超えたと判断した材料の一つである。たとえ高度な国語的設問がなくても、たとえそれが高尚な物語文でなくても、読解の対象として然るべき内容の英文だと思った次第である。


まず、どちらも実話が元になっているというのが素晴らしい。事実は小説より奇なり。下手な創作を出題するくらいなら、今回のように元ネタを拾ってくる方がリアルな分読み応えもあるし、何より説得力が違う。更に言えば、誰も知らないと思われる、特別世界的に有名ではないはずの人をネタとして拾って来ている。これは作問者が、日頃から様々な方向にアンテナを張っているからこそ、読み物にしたら面白い人が解るのだと思う。実際には、ネットのニュースになっていたものもあるので、誰も知らないかどうかは不明だが、少なくとも受験生が飛びつくニュースソースではなかったと思う。


1回は、まさに今フェイスブックを持っている、フランス在住Sabine Rouasさんとその「パートナー」Astonの話である。興味があったら是非検索を。またはこちらを→ https://switch-news.com/nature/post-48740/ この第5問、読み物としてもなかなか巧い。途中、脳内で「ドナドナ」が流れること間違いなし。その後の展開も面白い。思わず自分もフォローしてみたくなる。


2回の第5問、こちらの方は更に内容に深みが増している。こちらも実在の人物、無名のフォトグラファー、ヴィヴィアン・メイヤーの話である。こちらは日本では2015年の公開であるドキュメンタリー映画「ヴィヴィアン・メイヤーを探して」を見るのが早そうだ。私も未見だが、予告がネットで見られるので是非。謎に包まれた、生涯自分の写真を誰にも見せる事のなかったヴィヴィアン。それは何故なのか。勿論答えは出ていないし、それを予測させてどうのこうの、などといった設問はない。いや、だからこそこの問題は読後に余韻を残すのだ。一体この女性は、どんな生活の中で、何に興味を持ち、何故写真を秘密にし続けたのか。そこまで思うと、入試問題という領域を立派に超えた内容でありつつも、設問を追えば、彼女について情報が簡潔に得られ、心に残る。実に巧みな問題ではなかろうか。





 

良くも悪くも話題に上る、毎年の受験問題について、考えていたことをつらつら並べてみた。全て私個人の意見であり、何らどうこうしたいという意図はないw あるとすればただ、いつ何時でも、全ての受験生が、いかなる問題に対しても、悔いなく挑んでくれる事を望むだけだ。


 

短歌: 思う

感性は錆びつくものと思い込む前に引っ張り出す『ハムレット』



間違ってなかった私 コーヒーを啜る まろやか色の半月



コウネンキだからみたいよこの動悸ときめいている訳じゃないのね






短歌: 暮らす

 洗濯機回し掃除し料理して1日終わる幸せを知る



午後3時 鈍い光のテーブルで冬の匂いのコーヒー啜る



あれとあれ使ってチャーハン出来るかもいつも湯船で明日を見ている



2020年秋〜冬作



短歌: 暮らす

 声だけで笑顔と解る宅配に挨拶をする 繋がっている


スーパーもドラッグストアも皆家に運んでくれる人がいること



学校のプールで放尿するように広がって行くコロナウイルス



2020年春〜初夏作






はじめの一歩。

さあ、人生で何度目かのブログである。昔のようにテーマごとに縛りのない、自由度の高いものになればいい。主に、これまでに書き溜めた短歌や、大好きな海外ドラマの話や、適度に緩い日常のことなど書きたいと思っている。

タイトルはシェイクスピアの「ヘンリー5世」より。未知のウイルスが蔓延する世の中で、今一番欲しいのはあらゆる突破口であり、また、時々海を見に車で出かけていたような、穏やかで気ままな日常である。だからあえて、背景には海を選ばず、「おこもり室内」チックな写真にしてみた。

という事で、乾杯。平成と令和の間に撮った懐かしい写真と共に。