趣味と実益を兼ねて、というか、ある意味仕事なので、少なくともここ10年以上、毎年1月には大学入試センターの作る英語(今年からは「リーディング」と「リスニング」の2つ)の試験を解いている。名称が今年から変わったので前出のような書き方をしたが、実際英語は、世間に広く知れ渡っているように、中身も様変わりした。
こちらも周知の通り、ここに至るまでには紆余曲折があり、その道中において、外部の検定試験を使うのか使わないのかとかいったすったもんだが相当あった訳だが、これは今日話したい内容とは若干ずれるので、とりあえずあっちに置いておくことにする。
所謂「センター試験」が「変わるんだよ」とアナウンスされてから2度、当時の現役生に対して「試行テスト」というものが行われた。今年初めて行われた、これまた所謂「共通テスト」は、これを、特に平成30年の第2回目の試行テストをオオモトにして行われる(はず)、というのが一応のセオリーで、受験生は皆、そして指導者も(多分)皆、試行テストを舐めるように見尽して共通テストに臨んだ、と思う。
共通テストには最初から批判があった。とりわけ、それまで毎年お目見えしていた文法に関する問題が姿を消したことについては、様々に話題に上ったと記憶している。文法問題がそれ程得意ではない学生達はこの変化を大歓迎し、逆にコツコツと文法問題を解くことが嫌いではない学生(がいるとすればの話、だが)は、一抹の不安を抱えた、かも知れない。実際、昨年の秋頃には、恐らくどこでも殆どの学生が長文読解に多くの時間を費やしており、その頃に文法問題集を開くような学生はまずもって見当たらなかったろう。
共通テストに先んじて行われた2回の試行テストは、大問6つ全て文章題で、中には内容が薄く思えるものがあったのも確かである。例えば平成29年の第1回試行テストの第2問。完全に食〇ログだなと思わせるレイアウトに、その店を利用した人の感想やら写真(と思わせたいんであろうイラスト)やら★やらが並んでいる。狙いは、正式な文章になっていないものを読んで意味が解るかどうか、ということであろうが、何せ食べ〇グだからw、たとえ高校生であってもなんとなく解ってしまうというか、何でこれなの?というかw、まあ悪問とまでは言わないけれど、意味あるのかなと首をかしげたくなる、もっとぶっちゃけ言えば、時代に、世代におもねるのもいい加減にしなよ、というか、まあそんな風に思った記憶がある。
なもんだから、この頃は私も、共通テストなんかにわざわざ変える意味あるのかな、センター試験のままでいいじゃないか、と公言して憚らなかった。周囲の人達も皆同じ思いで、しかも、これは予想だに出来なかったにせよ、ウイルス跋扈の世の中になっちゃったもんだから、決まったこととはいえこのタイミングで共通テストにチェンジするのって受験生にとって可哀想過ぎない?というのが大方の意見だった。
が、受験生を甘く見てはいけない。今年の共通テストの英語の平均点は、前年と大きく変わることはなく、むしろリーディングは前年の英語(筆記)よりもいいくらいであった。どの学生も皆全力を尽くし、限られた時間と条件の中で、自分に出来る事を徹底して行った結果だろう。受験生よ、可哀想だなんて思っててごめん。君達のポテンシャルは我々の想像を大きく超えて羽ばたいた。完。あ、違うw
話を戻そう。センター試験から共通テストに変わり、リーディングから文法問題が消えたことにはちゃんと理由がある。その一つが、「代わりに、リスニングで文法問題が出題されるようになったから」である。新聞などで試験問題を見る人はリーディングしか見ていない人も多いかも知れない。リスニング問題も新聞に同じく載っており、スクリプトもついているのだが、各新聞社のサイトに行き、音声まで聞いて確認する人は余り、いや殆どいないだろう。もしも、文法問題が消えたことをお嘆きの貴兄貴姉がいらしたら、是非ともこのリスニングに挑戦して頂きたい。実は、人間、「読んで解るものは聞いても解る」、とは限らない。たった1,2回、ペラペラっと英語で文章が流れて、しかもそれが文法的にクセのある文章(時制や使役動詞などがネックになることが多い)で、どんな意味だったのか一発で正確に把握するのは慣れないと至難の業である。英検やTOEICなどに興味があるという人ならば難なくこなせるかも知れないが、ブランクがある人がトライしようとすると、恐らく「もう一回聞かせて!」となるはず。読むのは自分の力に合わせて無限回数で出来るが、聞くのはあちら側から回数に制限がかかる。自分ではどうしようもない分、ハードルは高くなっているのである。
だから、リーディングで文法問題が出なくなっても仕方ない、という意見に転びそうな物言いでここまで来たが、実はそこはそうではなく、個人的に、共通テストリーディングにも、文法問題を是非とも復活させて頂きたく思っている。
先程も言ったが、受験生の中には、共通テストに文法問題が出ないとなると、大胆にもそこを出来る限り端折って済まそうとする輩がいる。例えば「ヴィン〇ージ」のような総合問題集を1冊、出来るだけ何周も解いて受験に臨むというのがこれまでのスタイルだった訳だが、そこを端折る。高2までで散々、学校の小テストや定期テストでこのテキストに泣かされてきた学生達は、当然のことながら、出来るだけ早く別れを告げたくて堪らないのだ。それが実は長文読解で命取りになるとも知らずに。勿論、中にはこういったテキストに頼らなくても何らかの方法で実力をつけていく人もいるのかもしれない(あんまし見たことないけど)。が、フツーの学生であれば、総合問題集をマスターする前に見切り発車で長文読解に移行すると、正確に読む力がつかないのが通常である。
そして文法が解らないまま年を重ねて行くと、一番困るのは本人であろう。現代において、どんな若者でも日々縁があるのはデジタルディバイスであり、SNSである。ちょっとインスタなんか覗きに行こうものなら、たとえネコちゃん動画目当てであっても、日本語より他言語の方が盛大に飛び交っている。もしも英語だけでも多少解っていたら、確実に世界は広がる。その時、ちゃちゃっと読んで内容を知ったり、場合によっては返信するだけの文法力・作文力が絶対に必要なのだ。
暫く前に同僚と話した時に、若い彼は言っていた。これからの時代は、英会話じゃない、英作文だと。書けさえすれば、ネットで必ず誰かと繋がれるし、話している時ほど「間」を気にしなくてもいい。言い直しはしにくいけど、書き直しは(気づきさえすれば)出来る。まずは書いてあることが読める力、その次は書く力だと。禿同だ。読みと書き、なんて一見時代に逆行しているように思われるかも知れないが、1周まわって元に戻った、くらいに考えて貰えればいいと思う(どういうことだよw)。従って、今後若い人にインターナショナルな(死語?)力をつけて貰いたいなら、文法力は不可欠であると思う。そのためにも、読解だけでなく、文法問題の復活があるといいなと思う(文法問題だけやってれば作文力がつくのか、というのはまた別の問題ってことで)。
では、共通テストがセンター試験に比べて劣っているのか、というと、私は実はそう思ってはいない。いや、正確に言うと前出のように、試行テストまではそう思っていた。が、実際に今年の共通テスト問題を読み、解いた段階で、意見が変わった。欠点がないとは言わないが、私は、公開になった1回目、2回目の試験共に、よく練られた問題だったと思う。さすが、大学入試センターも、今回は特に批判に晒されることを百も承知だったからとはいえ、本当に天晴な作問が多かった。
世間からは批判が多いのは無論承知だ。新聞でも、識者のインタビューや一般からの投書などが散見され、センター試験に戻すべきだとか、共通テスト英語に解答することは単なる情報処理の訓練だとか、あれでは学校で教えていることが生かされていない、といった意見が見られた。そこであえて言う。学校で教えていることとは一体何だろうか。
いや、答えの一部は解る。例えば物語、人が主人公の伝記ものといった深いジャンルを教わる時、生徒達は、生き方だったり、考え方だったり、その主人公が成長する上での、或いは成功する上でのモットーであったりという、何か我々個々人が人間として生きて行く上での大切なメッセージのような、そういったことを学ぶのではないだろうか。それは正しい学びだと思うし、それに対して批判はしない。そういった読解は学校という場において、即ち教育という場において不可欠であり、その読みもの触れた生徒も何らかの成長をする、はずであろう。
私もかつてはそれと同じように考えていた。同じように考えていたからこそ、こう思っていた。深い読みを教えたり教わったりしても、センター試験がこんなんでは何にもなんないじゃん、と。中身が浅いのは今に始まった話じゃない。センター試験の頃だって,負けず劣らず情報処理能力を問う問題が増えていたし、中には内容もかなり浅薄なものがあった。
心の底から文型の私は、第5問という長文で、その年のセンター試験の良しあしを勝手に決め込むという悪い癖があった。中でもワタクシ的に傑作中の傑作(最悪な意味で)だったのは、2017年筆記の第5問。もしもお手元にあったら是非ご覧になり、出来ればお読みになって頂きたい。英語自体は平易である。と言っておきながら早速ネタバレすると、「いやあ参ったよまさかの夢オチ」ってヤツで、こんなの厨二病でも書かないよってくらいチープな内容であった。大体書き出しが
Ahhhhhhhhhhh!
だもんね。漫画かよ。いや、そこを狙ってんだとしても、安い。余りにも安い。他にも、ここまで酷くはないにせよ、2014年の第5問などは、じいちゃんと孫娘のお涙頂戴節で、これも安いっちゃ安い。この、第5問は少しの間、読む側に一定の情報処理能力を要求するダブルパッセージ問題だったのだが、文科省の指導要領が変わったことを受けて(と聞いたと記憶しているが)、2016年から物語調のシングルパッセージになった。急に変わると最も対応が早いのが受験出版業界で、この年に行われた各社の模擬試験の第5問には、それはそれは見事な内容と文章の、ネイティブの書いたものが元ネタに使われた問題が続出した。一つの読み物として読んでも全く遜色なく、うーんいいなあって思ってしまうくらいの文章が並び、今考えてもこの年の模擬試験は傑作揃いだったと思う。勿論いい意味で。
がしかし、本家本元が2017年に出したのが、先に登場した「夢オチ」問題なもんで、ここで気が抜けたのか腰を抜かしたのかは知る由もないがw、この後の模擬試験第5問は、この夢オチレベルの内容の、ネイティブの文とは遠くかけ離れた、先の展開の予想のし易い、言ってみれば面白くも何ともない英文が出題されることとなった。
出典の問題などで、恐らく大学入試センターは、オリジナルの文を作らざるを得ないのだと思う。だとすれば何もこんな、ク〇つまんない物語的な(「的」ですから)もんじゃなくて、いっそ全部説明文にしたらどうか、なんて思ったことがあるくらい、私は上記の問題にひとりひっそり疑問を呈していた。
しかしながら。何十万人もが一気に受験する試験において、「夢オチ」長文のような誰もが英語の読みさえ間違わなければ不正解しようがない問題とは真逆の、深い読みを必要とする内容の物語が「英語で」出題されることは、本当に必要なことなのだろうか。
若い頃は私もこんなことは考えなかった。読解とは深く読むことであり、単なる情報処理とは訳が違うと考えていた。が、年を重ね、様々な経験を積んでくると、若かりし頃の矛盾にも自ずと気づくものである。
昔から読書感想文は比較的得意な方で、学校で取り上げて貰う事もしばしばあった。ある時、私の感想文を代表にしたいと国語の先生に言われた。が、何度目かの直しの後、私の感想文は私のではなく、先生の感想文になっていた。母はそれを見て、「これじゃあんたの文なんか1行もないじゃない」と言って憤った。
先生の中には「こう書いて欲しい」という先生独自の、国語的に正確なツボ=解釈があり、それを私に求めたのではないかと思う。だとしたら何故私の文を選んだのか。もっと自分の色に染まりそうな生徒の感想文があったろうに。結果として、私の名前の付いた国語の先生の感想文は、コンテストで思い切りボツった。その後の事はもう記憶にないが、ものすごくスカッとしたことだけは覚えている。
前職についてまだ間もない頃、映画好きのある学生と縁があった。彼は所謂至極普通の、どこにでもいる素行の余り宜しくない部類の男子だったが、ある時「トレインスポッティング」の話になった。彼は本当に嬉しそうにラストの場面の話を始めた。「俺はさ、あそこはさ…」彼の解釈は、一般的にはそうは取られていない解釈であった。もしかしたらそれは、「間違い」だったのかもしれない。しかし私はふと、「そうだね、そう考える事もできるね」と返事をした。彼は「うん、そうだよね。俺はそう思う」と言って笑った。テストじゃないのだ。余程のことがない限り、自由に感想くらい持ったっていいのではないか。咄嗟にそう思ったかどうかは自分でも思い出せないが、大体話題に上った映画はあの「トレインスポッティング」なのだ。どんな解釈をしたって許されるような気がした。
T2見てないんだよなあ。でもジョニー・リー・ミラーはいつも「エレメンタリー」で見てた。
つまり、だ。正確な解釈や、主人公の心理などといった国語的領域について、英語で、しかも入学試験で問う、というのは些かお門違いなのではないだろうか、と今の、年食った私は考えるのだ。感想や心理考察といった分野には当然主観が入り込み、それは勿論ある程度幅があるとしても、ある一定の枠の中に入らないものについては「間違い」とされる運命にある。それを否定はしないにしても、それはあくまで「国語」の領域なのだ。だとすれば、そのレベルに行く前に、我ら日本人の英語力自体を計るべきであり、そのためには、まずは「正確な解釈」=英語が読めるのか、に焦点を当てるべきなのではないだろうか。
もう一つ、今年の共通テストリーディングの内容にお嘆きの貴兄貴姉には今一度、第1回・第2回共に、第5問をお読み頂きたい。これは私が、今年の共通テストは試行テストを完全に超えたと判断した材料の一つである。たとえ高度な国語的設問がなくても、たとえそれが高尚な物語文でなくても、読解の対象として然るべき内容の英文だと思った次第である。
まず、どちらも実話が元になっているというのが素晴らしい。事実は小説より奇なり。下手な創作を出題するくらいなら、今回のように元ネタを拾ってくる方がリアルな分読み応えもあるし、何より説得力が違う。更に言えば、誰も知らないと思われる、特別世界的に有名ではないはずの人をネタとして拾って来ている。これは作問者が、日頃から様々な方向にアンテナを張っているからこそ、読み物にしたら面白い人が解るのだと思う。実際には、ネットのニュースになっていたものもあるので、誰も知らないかどうかは不明だが、少なくとも受験生が飛びつくニュースソースではなかったと思う。
第1回は、まさに今フェイスブックを持っている、フランス在住Sabine Rouasさんとその「パートナー」Astonの話である。興味があったら是非検索を。またはこちらを→ https://switch-news.com/nature/post-48740/ この第5問、読み物としてもなかなか巧い。途中、脳内で「ドナドナ」が流れること間違いなし。その後の展開も面白い。思わず自分もフォローしてみたくなる。
第2回の第5問、こちらの方は更に内容に深みが増している。こちらも実在の人物、無名のフォトグラファー、ヴィヴィアン・メイヤーの話である。こちらは日本では2015年の公開であるドキュメンタリー映画「ヴィヴィアン・メイヤーを探して」を見るのが早そうだ。私も未見だが、予告がネットで見られるので是非。謎に包まれた、生涯自分の写真を誰にも見せる事のなかったヴィヴィアン。それは何故なのか。勿論答えは出ていないし、それを予測させてどうのこうの、などといった設問はない。いや、だからこそこの問題は読後に余韻を残すのだ。一体この女性は、どんな生活の中で、何に興味を持ち、何故写真を秘密にし続けたのか。そこまで思うと、入試問題という領域を立派に超えた内容でありつつも、設問を追えば、彼女について情報が簡潔に得られ、心に残る。実に巧みな問題ではなかろうか。
良くも悪くも話題に上る、毎年の受験問題について、考えていたことをつらつら並べてみた。全て私個人の意見であり、何らどうこうしたいという意図はないw あるとすればただ、いつ何時でも、全ての受験生が、いかなる問題に対しても、悔いなく挑んでくれる事を望むだけだ。
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