文:創る 『モーニン』(小説)


以下は、2年程前に某賞に応募したけど思い切りボツった原稿であるw ボツりはしたが、友人に読んでもらったところ悪くない感想だった。個人的にも思い入れのある内容なので、ボツを承知でここに載せておくことにする。もしもこの話が、誰かの目にとまり、創作的にも内容的にも、半面教師になったり、何かの参考になったりすれば幸いだ。


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 入れなくなって5日目の朝。もう泣いている場合ではない。私にしか出来ないことをするのだ。バッグからスマホを取り出しアプリを開く。昨今は定額音楽配信サービスとかいうのが幅を利かせているが、こういう時は使えない。音楽は自分が楽しむためだけのものではないのだ。誰かが誰かのために必要とすることだってある。うわ、奇跡だ。なんであるんだ三浦K一。紛れもない正統派昭和歌謡だぞ。半年前にリリースされたばかりの、御年90歳になる歌手の記念アルバムを、一体誰がこんな、外資系端末のソフトウェアでダウンロードするというのだろう、今の私以外に。早速購入。おっと、アルバムを聞くという事は、CDプレイヤーが要る。昨年の入院の際には、寸胴の丸いやつを使用したのだが、あの時あれで聞いていた、大好きだった氷川Kよしのアルバムを、暫く前から聞きたくないと言っていたのを思い出す。辛い記憶とセットになってしまったのかもしれない。よし、新しいのを買おう。プライム会員で本当に良かった。今日だけ寸胴を使って貰えば、明日には届く。アルバムダウンロード終了。今から戻ってパソコンで焼けば午後には持って来られる。

 叔母に伝えてから行こうと思い、出て来るタイミングを見計らっていると、それより先に回診が始まった。数日前にナースステーションの一番近くの個室に移ったため、回診も最初なのだ。

母は以前から、最後まで4人部屋で過ごす事を望んでいた。個室に行く事が何を意味するのか、当然解っていたからである。だからいざ、もう移った方がいいという判断が出た時、付添っていた叔母は真っ先に、病室の外でパイプ椅子に座っていた私にその事を伝えに来た。この椅子は、まだ体調が良かった頃の母が、毎日廊下の大きな窓から下界を眺める時に使っていたものである。叔母が言う。「ミノリが一番解ってるでしょ。お母さん、どう言えば納得する?」

晴海ちゃんが昨夜、簡易ベッドを用意して貰ってここに泊まった時、4人部屋だと狭かったからって言えばいいよ。移る理由はあくまで晴海ちゃんであって、言い出したのも晴海ちゃんだって事にして。それなら多分大丈夫。

咄嗟に思いついたにしては悪くない嘘だったのか、それとも騙されたふりをしたのか、いずれにしても、母は叔母の申し出を受け入れた。

今日は土曜だが、幸運な事に回診に来たのは母の主治医だった。私はドアの外にいたが、事情を把握していた看護師に促されて一歩中に入り、カーテンのこちら側から様子を伺う。声は弱くなり、滑舌も良くないが、「少し楽になりました。ありがとうございます」と応えているのが解る。

回診後、私は病室の外で声を潜めて主治医に言う。先生もお聞き及びかと思いますが、実は数日前から、母が私を一切寄せ付けないようになってしまいまして。顔を見せると、来るな、と凄い勢いで、というか、凄い形相で言うんです。お前は仕事だけしていればいいんだ、とか、いても何の役にも立たない、とも言われました。余りに突然で、どうしていいか解らなかったのですが、昨日看護師の山ノ井さんに話を聞いて頂き、気持ちも大分落ち着いたので、私は外で待機する事にしました。叔母では解らない事もありますので。

主治医は驚きもせず話を聞き、頷いてから、「解りました。それと、ご承知だとは思いますが」と切り出し、「あともう数日で」と続けた。はい、と返事はしたが、それはないだろうと思った。今の母は意地でも、もっと私を叱り飛ばしてからあの世へ行きたい筈である。数日なんてあり得ない。

とりあえずすぐに帰って、CDの用意をしなくては。今の私に出来るのはその程度だ。

 

母から「拒否られる」ようになったのは、4回目の入院から10日以上過ぎてからであるが、それまで万事上手く行っていたのかと問われれば否である。病人と家族だ。もめない訳がない。

「知ってるなら言いなさいよ」母は布団の上で背を向けたまま私に詰め寄った。昨年11月に手術、12月終わりに退院し、今年から点滴治療開始、順調に思えた矢先の3月、転移が見つかった。それでも治療を続けんがために通院する中で、高熱を発症。世間がゴールデンウィークの最中、2度目の入院となる。その直前の事だった。

「いつまでだって言われたの。知ってるんでしょう」苛立ちを隠す事無く母は凄んだ。そう、私は最初から医師達に聞かされている。生存率や成功率といった数値や、「浸潤」などの聞き慣れない言葉の数々。母はなるべくそういった話は聞かないようにしていた。先生方を信じて、お任せするばかりですから、と言って。線の細い、非常に研ぎ澄まされた人だ。聞けば間違いなくその数値や言葉以上の衝撃を受ける。結果として、聞き役は全て私になった。「確率は、ただの数字に過ぎません。お母さんが、この数字の中に入りさえしなければいいのですから」執刀医は勇気づけるように私に言った。

だからどれ程迫られようと、私は言わないと決めていた。知ってたら言うに決まってんでしょうが、と突き放すように言うと母は黙った。今思えばあの時母は、知っていながら言えない程のものを私が抱えていると気づいていたのであろう。

 

 4度目の入院をして5日目、病室に行くと看護師の山ノ井さんが母と共にいた。「ミノリ、来てくれたの。あんたも大変なんだから、こんなに来なくてもいいのに。今日だって仕事でしょう?」大丈夫だよ。まあ、来たって大した事出来ないけど、と私が笑うと、母が続けた。「ミノリが来てくれたんだったら、入ってみようかな」え?「あのね、山ノ井さんが、お風呂に入りませんかって言ってくれたの」今回の入院の前夜、仕事後遅くに母のところへ行くと、ぐったりとしていた身体を起こしながら、シャワーを浴びると言ったのを思い出した。あの時初めて、母の痩せた背中を流したのだ。

 山ノ井さんは慣れた風に、そして優しく母を洗い場へ誘導する。私も一緒に入り、あの時とはまた違う感覚で背中を洗った。よかったねえ、気持ちいいでしょう、と言うと、母は「うん、とっても」と言い、「もう二度とお風呂なんか入れないと思ってた」と続けた。腹部がキューピーのように膨らみ、苦しさも出始めた頃だった。

 そんな事があったから、拒否されて4日目に山ノ井さんに話しかけられた時、縋るようにして全てを吐き出してしまった。

 いい娘ではなかったんです。決して。仕事も、結婚も、一人娘なのに、親の言う事など何一つ聞かずに、自分のしたいようにして来てしまいました。いつだって叱られてばかりいました。だから、こんな肝心な時に、役に立つ事が出来ません。ずっと見てきたんです、倒れてからの母を。だけど私は、傍にいたつもりでいただけだったんですね。急にこんな風に変わってしまうなんて。

 ハンカチがぐっしょり濡れる程泣いた私を見て、山ノ井さんは言った。

「多分、岬さんは、最後まで、ミノリさんのお母さんでいたいと思ってるんじゃないかしら。病気をすると、心が弱るものだけれど、岬さんは、だからこそ、娘さんに頼るのではなくて、最後までミノリさんのお母さんとして、接しようとしてるんじゃないかと思う」

 

 猛暑のせいかパソコンの動きまで鈍い。ブーンと低い音を立てCDが焼き上がる間、昨日の山ノ井さんとのやり取りを思い出す。そしてそれはいつしか脳内で、昔見たテレビの動物ドキュメンタリーの映像へとスライドしていた。夏の終わりになると、キタキツネの親はある日、巣穴に戻って来る子ギツネを狂ったように追い払う。何度帰って来ようとも、親は子供を受け入れない。「子別れの儀式」と言うらしい。うちもこれなのだろうか。しかもこのタイミング。母らしいと言えば母らしい。

 焼き終えたCDを試しに聞いてみようと思い、賃貸マンションの2軒隣の母の部屋へ行く。父は暫く前からずっと高齢者施設だ。片や認知症、片やガン。こんな家族が益々増えて行くに違いない。入退院の合間を縫って母が断捨離をし続けていたため、部屋はすっきりとしていた。CDプレイヤーを棚から降ろす。その時、うっかりと横のバッグまで落としてしまった。中からカラフルな紙類が飛び出す。

 氷川Kよしのコンサートチケットの半券と共に出てきたのは、それを送った事さえ忘れる程に以前の、私の汚い文字や絵が所狭しと書かれた、カードや葉書類だった。どれも見覚えのあるものだったが、中に何を書いたかなどまるで記憶になかった。

お母さん、お誕生日おめでとう。お母さん、その後体調はどうですか。お母さん、荷物送ってくれてありがとう。お母さん、元気にしていますか。

日付から、私が一人暮らしを始めてからのものだと解った。こんなに書いたのか。こんなに渡したのか。こんなに全部、大事に取っておいてくれたのか。

 急にこの半年間の走馬燈が回り始める。ミノリ、病人と付き合うのは大変な事よ。この先何があっても、絶対に自分を一番に大事にするのよ。お母さんのようになっちゃ駄目よ、ミノリ。

県民文化ホール2階席1234番。隣には私が座っていた。

扇風機もつけずに、黙って紙の束を見つめた。

 

 新しいプレイヤーが届いて3日後の朝4時半、叔母から電話が来た。予想通りの時間。早朝の散歩が好きだった母だ。夜の訳がない。表へ出ると、下弦の月が天空に残る、この上なく美しい夏の朝があった。

 どんな言葉をかけ続けたのか、はっきりとは思い出せない。次第に呼吸が浅くなる中、声を聞く事はなかったが、開いたままだった瞳が一度だけ閉じられ、一滴零れ落ちると、母は静かに逝った。プレイヤーから三浦K一が流れ続けていた。

 様々な準備が整う合間に、主治医が駆けつけてくれた。今になって漸く、母の気持ちが解った気がします。そう言うと、主治医は頷いた。

 まだ実感の湧かぬ頭で窓の向こうの空を見上げる。光を溶かしながら薄く伸ばした水色が、どこまでも続いて見えた。





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