6月に入り、ふと気がついて調べたら、Sensationの4枚のアルバムをAmazonで一気買いしたのは昨年の6月11日のことだった。
初めて聞いたのは1週間前の4日。この日に4枚目と1枚目のアルバムをiTunesから購入しDLしている。日付が5日になっているのは真夜中を過ぎてからの購入だったからだろう。
インスタの初投稿が16日なので、その後間髪入れずにDLした2枚目と3枚目のアルバムと合わせて2週間近く毎日聞いて、更に現物=CDまで購入し、いよいよ黙っていられなくなったのがこの日ということになる。
6月は、ある意味自分にとってのSensation記念月間なのかも知れない。今日はそこに至るまでの、2017年からの約4年間の自分の道のりについて書いてみようと思う。音楽の話だけでなく、私的なことも含めて。
2018年の夏、母が鬼籍に入ったことについては当ブログの他の記事に書いたので詳細は割愛するが、その母が薨(みまか)る暫く前に言った。
「何があっても、8月のライブにだけは行ってね。お母さんのせいで行けなくなったなんて言われたくないもの」
互いに腹を割って、どころか、互いの腹に塩を塗り込むような喧嘩をする母娘だっただけに、全ての言葉がストレートで、時に春の日の冗談のように明るく、時に夏の嵐よりも厳しく激しく響いた母の言葉。その時も「うん、勿論だよ」なんて返事をしたのだと思うが、結局私はこの年の8月、横浜のB'zのHINOTORIには行けなかった。
葬儀の夜、毎年恒例の夏の仕事が入っており、職場の気遣いに甘えることなく行ったはいいが、終わってから化粧室で見た顔はまるでゾンビのようにやつれており、つくづくライブに行けないとKに断ってよかったと思った。そしてどんな状況であれ、こんな酷い顔で年端も行かない若い人達の前に出てはいけなかったと反省した。
亡き母の生前の最大の気掛かりは、父だった。病が判明して母が最初に着手したのは、父の施設を探すことだった。
本人にも、そして家族にも然程の自覚なきままに進むのが認知症である。父もそうだった。最初は身体が動きにくそうだなくらいにしか思わなかったのが、気がつくとぼんやりとすることが多くなり、その日の時間が解らなくなり、自分の持ち物を日に何十回と確認するようになり、と、どんどん様子が変わって行った。
病院にももちろんそれよりずっと以前に母が連れて行っていたが、タイミングもあったのか、それ程のことを言われずに終わってしまった。
その頃一番困ったのが車の免許である。本人は更新すると言ってガンとして譲らない。まだ母も元気でいたのだが、連日、と言ったらオーバーかもしれないが、免許センターや警察などあちこち電話して、仮に本人が更新しに(家族に黙って)行ったとしても、なんとかそこで止めてもらえないだろうかと懇願したものだった。今はどうか解らないが、当時は「本人が来て、仮にその時だけちゃんとしていて更新講習を受けてしまって通ってしまったら、それ以上は何もできない」というのが見解だった。私と母はほとほと困った。
そして結果的に、まだ意識がはっきりしている時間が比較的長かったということもあり、父はある日黙ってタクシーを呼び、免許センターに出向き、更新講習に通ってしまったのである(認知症であっても初期にはこの程度のことは出来てしまうのだ)。帰宅して、運転技術を誉めてもらいさえしたと言って喜んでもいた。母は「そう。よかったね!お父さん、これでまた車が運転できるね」と言って父を励ました。
が、免許更新した途端に、父は転がり落ちるみたいに症状が進んだ(従って運転は全くしないままになったのは家族には幸いだった)。母の病が発覚したのはその約4ヶ月ほど後の、2017年の秋の初めである。
母の手術・入院前、相当のスッタモンダの末(とてもここには全部書けないような細かいことがいくつあったか解らない)、特養が空くまでの間「デイにロングで」という方法で父は1つ目の施設に入所した。この間にケアマネージャーは3人変わった。3人目のMさんは男性で、さっぱりしていて、いろんな質問に根気よく答えてくれた。
ここで、私のように、突然「親の介護」という問題にぶち当たった方のためにアドバイス。
まずは自分が勉強すること。別に難しいことではない。本を買って読めばいい。ネットだと瑣末だったり余計だったりする情報も多く、自分の欲しいものに逆に行きつかないことも多い。私の場合、認知症の本2冊(介護体験者の方がお医者さんのアドバイスを受けて書いた本1冊と、お医者さんが書いた本1冊)と、介護と高齢者施設に関する本1冊をAmazonで見つけて読んだ。法改正が都度都度進むため、本はその時々にアップデートされたものを読む方がいいと思うのでお勧めはしない。というか、実はもう処分してしまった。本を手元に置いておくと、それだけで心強い。私は元々本が好きなので余計そうだったかもしれないが。
それと、ケアマネージャーは合わないと思ったらチェンジすること。我慢していると介護する人の心の負担だけが大きくなってしまう。我が家は2人目の人が合わなくてどうしようと思っていたら、その人の上司にあたる方が「よかったら私が引き受けましょうか」と言ってくれた。これがMさんである。本当にラッキーだった。介護施設の料金体系が全く理解できなくて(これほんと解らなかった。夫と2晩考えても計算が合わないという事態)、本と首っ引きで質問したが嫌な顔もせず付き合ってくれた。最後には「こんなに質問されたの、この仕事に就いて初めてでした〜!」と笑われた。
最後に我が反省から。施設にはやはり一度足を運んで決める方がいいだろう。いろんなチェックポイントがあるが、「床が綺麗か」「施設全体的に匂いがするか」は見ておいていいと思う。1つ目の施設は職員さんは割といい人達だったが、行く度に父のベッドの下の床が汚れており、先にそれに気づいた夫が私を促してくれ、一緒に拭き掃除的なことをして帰宅することも多々あった。施設全体に匂いもあった。父が気に入って長くいてくれた2つ目の施設はこれが両方なかった。
入院中の母の希望だったと思うが、2018年の春頃、施設に入った父を連れ出し、母と面会させたことがあった。父はもう何となくしか母の病状のことを解らず、でも母は会えて嬉しそうだった。私と夫と、4人で会ったのはあれが最後だったかもしれない。
6月の中頃だったか。病院にいた母がかもめーるを用意して欲しいという。ずっと父に来ていた年賀状の相手方に、今の父の状況と、今後賀状が出せない旨を書いて出すようにと言った。
「年賀状でそんな内容のが来ると、みんなびっくりするでしょう?暑中見舞いなら書きやすいし出しやすいから。文面はあんたが考えてくれる?誰に出したらいいかはお母さんが見て決めるわ」
「いいよ。じゃあ書くから文章と内容チェックしてね。差出人は、お母さんと私の連名でいいよね」
恐ろしい程の猛暑となった2018年は、梅雨が奇跡的に6月のうちに明けた。私は作ったばかりの暑中見舞いを梅雨明け翌日に全部投函した。
時を同じくして、母は一旦退院した。紺地に細かな花柄の、大好きだったワンピースで迎えに行くと、院内のエレベーターで母より少し年嵩の増した感じのご婦人が2人で褒めてくれた。
「綺麗ね。もうこんな洋服の季節なのねえ」
「そうね。いいわねえ。よくお似合いよ」
母にそれを告げると、「うん、そのワンピース、すごく綺麗だものね」と笑顔になった。
2日程後だったろうか。よく行っていた有名な神社へ2人で行った。夏越しの大祓の茅の輪があり、二人でくぐった。母は足元が少しふらつき、歩みはゆっくりだった。前の年の誕生日に珍しく贈ったハンドバッグを母が持ってくれていたことだけは鮮明に覚えている。
その後1週間程して母は再入院となった。そしてこのブログ冒頭に書いた「ライブに行ってよね」という話になり、あと1週間、と言われつつも母は月末まで約20日間も頑張って、そして空へと舞った。
その頃、2つ目の施設に入っていた父に、母のことは告げなかった。言っても解らないのだし、混乱させたくはなかった。施設側にも言わないよう協力を頼んだ。
そうそう、母が入退院を繰り返した頃だからこれより数ヶ月前に、父が入所者の誰か(の関係者が持ち込んだらしいが)から我が家にとってはご禁制の「タバコ」を入手したという事件があり大分参ったのを覚えている。父は認知症になる前から「103歳の肺です」と言われる程のヘビースモーカーで、肺気腫を患ってもいたため、タバコは御法度だったのだ。これだけはこの施設、もう少し行き届いて欲しかったと思わざるを得なかった。まあ結局1本も吸うことはなかったんだが。火がなくて笑。
私には母の妹、つまり叔母がいて、色々と協力してもらった。父が熱を出したといえば薬を届けたり、私が行けない時は病院の付き添いもしてもらったことがある(特養じゃない限り、付き添いは原則家族になる。これが意外に負担である。夜いきなり呼び出されることもある)。誰か手を貸してくれる人がいたら、遠慮なく借りていいと思う。
認知症がある程度進んだある日、施設にお見舞いに行った時(大体週1で行っていた。行けないことも多々あったけど)、いつものように辻褄の合わない話をする父を見てふと、全部話を合わせてみたら楽しいのではないかと思いついた。父の話は大抵は昔と結びついた、でもおかしな話で、そんなこと絶対にないという内容なんだが、これが合わせるとどんどん出てきて実に楽しかった。もっと早くこの手を考えついていたら、私も父も互いに不快になる瞬間が少なかったろうにと思う。
2018年の秋。B'zの30周年記念ライブHINOTORIがWOWOWでOAになった。わざわざWOWOWに入って心待ちにしたのだが、見始まって暫くしてALONEが始まった時、崩れ落ちるように泣いた。泣きに泣いた。全く止まらなかった。声を上げて泣いた。
「ねえ、昨夜ね、ラジオでB'zのALONEって曲がかかったの」
「あ、そうなんだ。今年30周年記念だからね。いろんなところで特集されてるんだね」
「そうなんだ。あれ、いい曲ねえ。本当に」
亡くなる数ヶ月前の会話は多分一生忘れない。
HINOTORIのライブは、あれ以来一度も見ていない。ディスクも買ってない。多分この先、あれを見ることは二度とないだろう。
順調、ではないにせよ季節は進み(父の通院も多かったし)、2019年6月。父の症状も季節と共に進み、ようやく特養に入れることになった。施設にはいいスタッフがいて、みんな明るかった。が、個室の父の部屋を整えるため、用意してほしいと言われて一番困ったのがカーテンだ。防火用のカーテンがマストで、長さも決まっている。これは困った。どのホームセンターにもなかったので、最終的にAmazonで見つけた気がする。
施設によるかもしれないが、準備するアイテムのカーテンは盲点である。しかも値段も結構高いので、要チェックである。
こんな途中で言うのも何だが、こういう一切の間、夫は何一つ文句も言わずに私に付き合ってくれた。そして何より、物静かで穏やかな夫は私より父に好かれていた。これだけは、一生かかっても感謝しきれない気がしている。
ちなみにこのブログの存在を夫は知らない笑。
そうそう通院といえば。これだけは平日なので夫に頼む訳にもいかず、しかも私はペーパードライバーなので運転できず、介護タクシーに頼るしかなかった。これも、いい人に巡り合えるかが鍵となる。私は個人でやってるおじさまで、父に合う方がいたお陰で助かった。いつもその方に電話をして、通院の日に迎えに行ってもらっていた。その方が空いてないと本当に困った。この辺も大事な点かもしれない。
漸く特養で落ち着いたかに見えたが、父の体調は思わしくなくなり、施設の主治医から一度入院して様子を見たらどうかと言われた。その後すぐ、父は母と同じ病院に入院した。7月だったと思う。母が亡くなって1年の頃だ。
2019年8月。見舞いに行った際、甲子園の話になった。父はスポーツ万能で、若い頃は某甲子園常連校で左のピッチャーを任されていた。また結構な不良だった(とは決して父は言わなかったが間違いない)ため、停学を食らって家にいたら、野球部員のひとりが迎えに来て、「監督が、お前がいないと困るって」と言うので放課後渋々行って練習に参加すると、見て見ぬ振りの監督の伝言を全て他の部員が伝えにきた、という伝説が我が家には残っている。
その日父の記憶は珍しく「繋がって」おり、甲子園の話を楽しくしたのを覚えている。そしてその頃はもう余り言わなくなっていた口癖を最後に言って、私達をベッドの上から見送った。
「なあ、俺はもう、何にもしてやれないんだから、気をつけて帰れよ」
その数日後、昨年のリベンジとばかりに勇んで行ったサマソニ。1曲目は “RED” 母のことを誰にも話さずにいた頃、ひたすら心頼みにしていた曲だった。嬉しかった。会場内での何杯目かのビールに塗れながら、私はスタンド席でまた泣いた。四半世紀の付き合いになる親友Kとも無事再会を果たし、翌月頭の幕張でまた会おうねと固い約束をした。
その約2週間後。病院から急に連絡があった。嘘、5日前に会ったじゃない。駆けつけた時にはもう父はさっさとこの世を後にしていた。機嫌よくお昼を済ませ、デザートまで食べて、看護師さんと会話までして、少しして様子を見に来たら、息がなかったんだそうだ。噎せた訳でも何か詰まった訳でもなかったという。病院もまさかと思い出来る限りの手を尽くしてくれたそうだが、父はこちらに戻ってくることはなかった。
「じゃあ、苦しまなかったんですね?」
私が若い主治医に最初に発した言葉はこれだった。母が苦しんで行ったのを見ていたので、それだけは避けたかった。そして父は恐らく本人もびっくりするくらいの感じで、あっという間に何一つ苦しむことなくこの世を去ってしまった。
母が来たんだな、と思った。もちろん科学的根拠などない。単なる直感だ。
父のことが一番気がかりだったのだ。こんなところに残しておいたんじゃ可哀想。きっとそう思ったんだろう。
「頼りにならない娘にはさっさと見切りをつけて、行こうよ、お父さん」
母にそう言われ、父はまだきっと不満だったろうけど、まあいいかって感じで、じゃあ行くかって返事をしたに違いない。
「私だって、新しいお墓でまだひとりでノビノビしたいのよ。でもそろそろいいじゃない」
「そうだな。あれもその方が、楽になんだろ」
母と父は1年と1ヶ月違いで、また互いに顔を見合わせて喧嘩するような間柄となった。天上で。
お気づきかと思うが、つまり私は両親どちらとも、今際の際の言葉を交わしたりしていない。よく「最後に言葉も交わせなくて」というのを聞くが、体験者の立場で言えば、それは余り大したことではない。
大事なのは、そうなる前にどれだけ多くの言葉を交わしてきたか、である。私も父とは若い頃からそう沢山会話をしてきた訳ではないが、母とはもうほんとによく話をしてきた。よく話したし、よく喧嘩したし、よく叱られた。
「あんたとは、もういいってくらい、しっかり『親子』をやってきたから」
とは、生前の母の言葉。全くもってその通りだ。
B'zのWhole Lotta New Loveのライブは父の葬儀から確か2日後だった。
「あんた、今度はちゃんと行きなさいよね。今度も親のせいになんかしたらお母さん、許さないわよ」
言われる間もなく私は行った。9月の頭、幕張のちょっといいホテルの部屋でKと落ち合い、ライブ前、ほんの少しの肌寒さから購入したおでんを突きながらビールを飲み、私は切り出した。
「お父さん、逝っちゃってさ」
突然の告白にKは泣いた。泣きに泣いた。父がトレノに乗っていた時分からの私の友人である。こんな残酷なタイミングで言う私も私だが、この時ライブがなかったら、言うのがもっと辛かったかもしれない。なんたって2年連続だったし。
ライブは楽しかった、というか多分楽しかったんだと思うが、私にはKとの思い出の方が遥かに大事なので実はよく覚えてはいない。
このライブのディスクも持っていない。この先買うつもりもない。パンデミックになった時全てのライブ映像が無料公開されたが、多分1回くらい見たんだろうけど、何も記憶にはない。
一人娘ゆえ、幾許かの父の遺したものを整理しなくてはならず、年金事務所、市役所、銀行、郵便局、法務局など仕事の合間に走り回る日々が続いた。更に合間にあちこちに電話し、書類を取り寄せては持っていったり送っていたりしたような気がする。
土地家屋の処分は想像以上にスムーズに行った。登記を書き換える時には少し緊張したが、これも相続の本を買って見様見真似で書類の作成をしたら、そのために法務局に通うのは2回で済んだ。何事も本である笑。不動産会社にも恵まれた。若い社員さん2人には本当に感謝している。
ある意味道楽者だった父の所有物として、立派なゴルフ用具一式が出てきて、興味津々だった夫がある日思いっきり落胆しているのでどうしたかと聞くと、
「…全部、左用だった…」
とのこと笑。ごめんね、お父さん左利きなのよ。
東京の司法書士さんと会ったのが2020年2月。世間に不穏なウイルスのニュースが流れ始まって間もなくだった。書類作成が済んで、一度として土地家屋に足を運ばずに実際の全ての処分が終わったのが確か3月中頃だったか。世の中のニュースは全てコロナウイルス一色となり、4月に始まる授業が1ヶ月遅れになると言われ、自宅に籠る日々となった(まあこれは今もそうか)。
2020年秋。B'zは “5 eras”と銘打った配信ライブを5回に渡って敢行した。嬉しかった。心から楽しかった。Kともライブの度に電話してきゃあきゃあ言っては語り合った。
でもDay1のAloneはまともに聞けなかった。正直、AVACOも今でもまともには見られない気がする。
懐かしい庄ちゃんとカイチさんが揃ったDay3は今でも私の中では5回中一番の「神ライブ」だが、気がつくと配信中ずっと目で追っていたのは、松本さんでも稲葉さんでもなく、「大賀くん」だった。この人、ずっと前から何度も見てるけど、凄いなあ。ギターのことはよく解らないけど、この人が凄いってのだけは解る。そんな風に思っていた。
ファーストの位置にいる人が輝いているのは、セカンドにいる人が素晴らしいからに他ならない。1番は、2番がいるからこその1番なのだ。経験上それが明らかなのは知っていた。
けれど、タイミング的にいろんな意味でまだまだ「体力」が落ちていたこの頃、ここですぐに「大賀くん」について調べたりアクセスしたりする、という行動には出られなかった。5 erasが終わってしまったらそれっきり。インスタのアカウントは持っていたけれど、サマソニ以来何も投稿してはいなかったし、するつもりもなく、ましてやそこに「大賀くん」も「徳ちゃん」もいるなんて思いもしなかった。
年が明け2021年5月。5 erasが夏の終わりにディスク化するというニュースが飛び込んできた。わあ、あの感動よ再び!そしてここで突如思い出したのが「大賀くん」だった。
大賀くんと徳ちゃんがまた見られるんだ。あれ、そういえばブルーノート東京からメール来てたな。徳ちゃんの写真があった気がする。出るのかな?Kを誘って配信見ようかな。
ところで、大賀くんは?大賀くんって何やってるんだろ。
そして現在に至る。
以上のような経緯から、私はサマソニには行ったものの、大賀くんの周辺も知らなかったし、ましてやSensationは名前すら知りもしなかった。全て昨年以降なのだ。全くの新参者、と言っていい。
だけどよく覚えている。
ちょうど1年前、ウィキか何かで大賀くんのことを調べて初めてSensationを知り、じゃあiTunesで買えるのかなと思って検索してみた。ウェブに戻ってアルバムジャケットを確認し、せっかくだから一番新しいのをと思って4枚目の1曲目のAXISを試聴した。
うわ。何これ。新し。うわ。カッコい。
と頭で言ってる間に視聴時間が終わりw、じゃあデビューアルバムを、と思って1枚目の1曲目のSensationを試聴した。
うっわあああああああ。
頭にも心にもこの数年の間に溜まった「汚泥」のような感情が、全部真っ新にされるくらいの衝撃を受けた。こういう時blowという単語がよく使われるが、まさにその通りぶっ飛んだ。この歳になってこんなに感情を揺さぶられる音楽が存在することにも驚きを隠せなかった。
人生には何事にもタイミングってものがあって、いくら望んでもそこに至らないのはタイミングが違うってことなんだと思う。逆に言うと、何かにハマったり誰かに出会ったりするのは、まさに自分が求めていたものが自分の望んでいたタイミングでやってきたってことを意味するのだろう。
欲を言えばもう少し若い頃からSensationという凄いバンドを知っていたかったけれど、もしかしたら知らないままだったかもしれないことを思えば、知っただけでもラッキーと言える。
B'zがナンバーワンだった頃の自分と、Sensationと出会ってからの自分は多分、小説で言ったらチャプターが分かれているくらい違うような気がする。要は新しい章が始まったということだ。それだってきっとKに言わせれば「昔のあなたがあるからこそ、今のあなたがある」ってなことなのだろうから、Aloneが大切な1曲であることには変わりはない。
だけどせっかく自分という小説のチャプターが変わったのだから、日々心浮き立たせながら、新しいページを喜んで紡いでいくことにしたい。
という訳で、これからの1年もこれまでの1年と同様、大賀好修さんをはじめ大楠雄蔵さん、麻井寛史さん、車谷啓介さんのSensation全員がナンバーワンだ。
大きなことは何もないかもしれないけれど、今年の7月25日の10周年を、ファンになってまだ1年の私も一緒に喜べるのが嬉しい。
前から書きたい、書かなければと思っていたことを書けてよかった。
Sensationの話もだけど、今回の記事のどこかが、誰かの役に少しでも立てる日が来たら幸いだ。