文:創る『Summertime Blues 3: Good Morning Blues』(小説)


Summertime Blues 1: Blue Minorはこちら

Summertime Blues 2: Ultramarineはこちら

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 アスファルトも溶け出す程焼け付く夏の日差しが、誰も通らぬ往来にぽつんと佇んだ真っ黒い携帯電話の上に容赦なく落ちていた。アパートの前にバイクを止めて拾い上げる。まるで発火した塊だ。日陰に入りしげしげと眺めた。今時珍しいガラケーで、どうしたら持ち主のデータが出るのか見当が付かない。適当にいじると着信履歴が現れ、スクロールの途中に覚えのある名前を見付けた。フルヤイオリ。彼女の着信は七月の初めで止んでいた。アパートを見上げる。相変らず洗濯物が賑やかだ。

 突如携帯が振動した。公な職場からの着信。おもむろに出ると、やはり落とし主だった。僕は自分の名前を告げ、今夜返す約束をした。




 夜九時。駅前通りのカフェは、今日もコスモポリタンな微粒子で賑わい、自分という意識を忘れ去れる感覚が妙に心地良い。

「オサダさん?」

 不意に名前を呼ばれ僕は振り返った。

「クドウです」

 携帯の持ち主だ。《暑気払い》と称する飲み会を抜けられず遅れた事を彼は詫びた。

「助かった。無くしたら大ごとだった」

 くたびれた携帯電話を見詰めて笑う表情は悪い感じではなく、僕もアイスカフェラテを啜りながら口元を緩めた。

「君、ホクトって名前なんだ」

「は」

 彼は僕の横を指差した。専門雑誌の上に置かれた電子辞書には小さなタイプ文字でオサダホクトとラベルが貼ってある。裸眼だとしたら相当いい視力だ。

「俺はヤスヒコ」

 酒のせいか彼の舌は滑らかである。僕が結構年下と解りリラックスしたらしい。彼は尋ねた。

「この携帯、何処に落ちてた?」

「紺屋町です」

 僕は自分の住むアパートの名を告げた。すると彼は今までの饒舌さを急に失った。仕方なく僕も黙り込む。直後、彼の携帯が振動した。

「あ、どうも、お疲れ様です」

 職場を匂わせる型通りの会話が終わると、彼は快活さを取り戻し僕に向き合った。

「二次会だってさ」

「そうですか」

「じゃ、本当にありがとう」

 彼は軽く頭を下げると慌しく店を出て行った。

 結局、彼女の謎は解けぬまま僕は彼を解放した。考えたら当然だ。たまたま拾った携帯に隣の部屋に住む女性の名前があっただけじゃないか。薄っぺらい野次馬根性を反省し椅子に座り直すと、僕は二杯目のラテを頼んだ。





 彼から突然の訪問を受けたのは数日後の夜だ。

「お礼がしたくてさ。アパートの前にいるんだけど、部屋は何号室?」

 面喰った。隣の彼女はお盆休みらしく昨日から留守である。再び盛り上がるささやかな好奇心を押さえ込み、僕はルームナンバーを教えた。

 高そうなワインとウイスキーを下げて彼はやって来た。

「こんなに…。あの、良かったら上がりませんか」

 不意打ちの申し出に少し戸惑った様だったが、彼は頷いた。

「こないだは早々に帰って悪かったね」

 きょろきょろしながら彼は言った。アパートの部屋は大体左右対称に作られている。見覚えのある部屋と反対なのだろう。勝手な想像を追い払い、僕は彼に座布団を勧めた。

「食事しましたか。パスタ作ってるんで、食べて行って下さい」

「君、料理出来るの?」

「はい。学部生の頃、朝日町のビストロでバイトしてたんです」

「学部生?」

 不思議そうに尋ねる彼に、僕は今自分が大学院に在籍している事を告げた。

「二十歳位かと思ったよ。院生か。頭いーのね」

 僕は当たり前の謙遜をしたが、彼の惚けた台詞の裏に棘の様な物が潜んでいる事を、茹で上がったパスタにゴルゴンゾーラチーズのソースを絡めながら感じた。

「食いましょう」

 セロリとバターの薫風で彩られた皿をテーブルに並べ、僕は明るく言った。

「ホクト君てテレビ見ないの?」

 頬張ったパスタをワインで流し込み彼は聞いた。

「見ますよ。でも普段は音楽聴いてる事の方が多いです」

 僕は床に寝そべった四角いスピーカーを見遣った。エラ・フィッツジェラルドが唄っている。

「君もジャズなんだ」

 彼が洩らした。

「唄モノが好きで。クドウさんも聴くんですか」

「前に焼いたCDを貰った事があってさ」

 目を逸らして彼は言った。僕はワインを啜る。切れ味のいい、上品な辛口の白。

「美味いですね。喉に染み透る感じです。県産ですか」

「うん。美味いよね」

 彼は杯を重ねた。





「料理が出来て、頭が良くて、ジャズが好きか」

 軽い晩餐を終え、皿を片付けた後だった。

「何もかも俺とは違うんだな」

「え?」

 見ると彼は既にウイスキーの瓶を開けていた。

「ホクト君は、俺とは違う」

 僕の目を覗き込み彼は繰り返す。

「俺とあいつが違った様に」

 彼は澱んだ瞳で液体を流し込んだ。

「ひと月位前に別れた女がいてね」

「ええ」

「初めから俺とは大分違ってたんだ」

 音楽や映画から生活様式全体まで好みが異なったと彼は言った。

「例えば俺は、休日出来るだけ寝ているのが好き。あいつは起きて洗濯するのが好き。俺はスカートが好き。あいつはパンツが好き。ホクト君だって短いスカートの方がよくない?」

「似合ってるかどうかが問題じゃないんですか」

 彼はつまらなそうにふん、と鼻を鳴らした。

「優等生なんだね。君、オンナと付き合った事あるの?」

「一応」

「何人とHした?」

 僕は彼を見遣った。世界中を見下して斜めに歪んだ目付き。これも彼の姿の一つらしい。僕は怯まず言う。

「童貞だったらどうだって言うんですか」

 彼はふと我に返り、沈んだ声で

「悪かった」

 と呟いた。僕は台所に行き、二人分の水割りを作ると彼の前に出した。彼は済まなそうに項垂れた。






「本当は」

 違う事など承知で付き合っていたと彼は続けた。

「あいつはいろんな意味で真面目だった。でもそれが普通だって言う」

 彼はグラスを揺らす。

「俺には真似出来る筈なくて、一緒にいると自分が小さく見えてね」

「どうしてですか」

 僕は食い下がった。

「クドウさんにはクドウさんのいい所があるんじゃないんですか?彼女だってそれを認めてた筈です。何故そんなに」

 必要以上に卑屈になるんですか、と言いかけ口を噤んだ。水割りで言葉を流す。

「とにかく」

 彼は構わず話を進めた。そんな気持ちを彼女に悟られない様に、彼はいつも戯れた態度で彼女に接した。

「真剣な話は全部、ジョークで交わした。結婚話とかね」

「そんな大事な話をはぐらかしたんですか」

「君は本当にストレートだな。若いっちゅうこんだね」

 思わず出た甲州弁に、彼は自嘲的に笑った。

「まあ最後まで上手くやったよ。で、この辺が潮時かなと思って連絡を止めたら、非通知で電話して来やがった。あのガラケーに」

「どれ位付き合ってたんですか」

「半年位」

「半年付き合って何の別れ話もなかったら、普通はけじめつけたいと思いますよ」

「そう?俺はちゃんと話して別れる女なんて今までいなかったけど」

「それは」

 《軽くしか付き合って来なかったからですよ》僕は台詞を引っ込めた。





「だが、俺の快進撃もここまで」

 彼は調子を変えずに言った。

「軽いジャブは後から効くって言うけど、全く、こんな思いをするなら、貸したDVDを返したいって言われた時『いいさよう、そのぐれえやるさよう』なんて言わなきゃ良かった。取って置いて思い出に浸る様な、あいつはそんな女じゃない」

 最後に会った夜彼女は恨み言一つ言わず《気に入らない所があったなら言って》と問い掛けたそうだ。彼はうざったく感じながら彼女に答えた。

「実家のお田植えを手伝ってる時に電話された事とか、セックスの事。俺のして欲しい事を全然してくれなかったからね」

 別れ際彼女は《私に決める積りはないのね》と尋ねた。

「俺、『バカ。俺はもっとベターなのを探すんだよ。一度しかない人生、お前(おまん)なんかに決めっこねえら』って言った。でも」

 黙り込む僕に彼は続けた。

「あいつは解ってた」

 彼が彼女と本気で向き合わなかったのは、彼自身が自分のコンプレックスと向き合いたくなかったからだ。

「多分あいつはわざと俺に文句を言わせたんだと思う。あいつの文句を言えばあいつと向き合う事になる訳だし、それは結局俺が現実と向き合う事になる」

 彼はグラスを空にした。

「あいつは俺が隠してた劣等感を引き摺り出したんだ。ここを通って初めてそのことに気付いて、携帯を落としたらしい」

 あいつが誰なのかなんて今更聞く必要もない。僕は壁越しに知る彼女を思った。毎日欠かさず洗濯をし、夜中に映画で啜り泣き、会えば笑って挨拶を交わす彼女。

「あの日、部屋を見上げた瞬間妙な未練を感じてた」

 彼は言った。

「今日も洗濯物が出てるな、なんて。でも本人の姿は見えなかった。いる訳ないか。月九ドラマじゃあるまいし」

 彼は渇いた笑い声を立てた。





 何処かで花火の音がした。この時期は至る所で花火大会が開かれる。

「花火か」

 彼がぼんやりと言った。僕は閃いた。

「やりませんか」

「え?」

「そこの商店街で貰ったんです」

 僕は子供花火の束を取り出した。彼は黙って眺めていたが

「派手にやるじゃん。どっかで買い足そう」

 と言った。早速僕等は部屋を出る。すると彼は立ち止まり、回想とも喧騒ともつかぬ記憶を辿る様に隣のドアを見詰めた。僕は気付かぬ振りで階段を降りた。

「男なんて愚かだなあ」

 真昼みたいなコンビニを出た帰り道、彼は言った。

「傲慢で、脆くて、どうにもなんない癖に、それをさらけ出せなくて」

 毒気の抜けた彼の顔が下弦の月に照らされている。

「だからこそ、女性を求めるんじゃないですか?」

「大人の発言じゃんね」

 彼はからかう様に言った。

 年嵩の増した男二人で、花火に夢中になった。銀色に輝く光がコンクリートへ流れ落ち、美しさを惜しみなく晒しては消えて行く。嬌声を上げてはしゃぐ彼は無邪気で、彼女が彼を受け入れた気持ちが少し解る気がした。

 雑魚寝で夜を遣り過ごし、彼の鼾に寝不足のまま僕は朝を迎えた。ベランダの月は西へ傾き、ほの紅い雲が低く輝いている。熱いコーヒーでも淹れるか。僕は今一度空を見上げた。微冷を含む風にたゆたう終わりかけの夏は少女の様にはにかむと、スカートの青いレースの裾を翻して彼方へと駆けて行った。










Good Morning Blues by Ella Fitzgerald 



初出:「月刊マイタウン」2004年

加筆・修正:2021年7月




 


文:創る『Summertime Blues 2 : Ultramarine』(小説)


「Summertime Blues 1: Blue Minor」はこちらをご覧ください。

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 僕が初めて彼女を知ったのは昨年の四月、大学に合格し、宝石鑑定士の叔父の家へ下宿する事になった時だ。鑑定士と言っても、昔水晶の採れたこの街にはその名残か叔父の様な宝飾関係者が多く住んでいて、特別なものではない。
「狭い家だが、それでいいなら喜んで請け負うよ」
 叔父は快く僕を迎えてくれた。
「それに、うちには一人、むさ苦しい男が居るだろう?タカヒロ君ならあれも嬉しがるさ」
 従兄のコウちゃんはアメリカで正式な宝石鑑定士の資格を取り、今では立派な片腕として叔父の会社で働いていた。十も年上だが僕とはウマが合う。叔母さん似の整った顔立ちに叔父似の細い長身で、相当カッコいいのに何故か女運がなく、実はバツイチである。

 叔父の家に引っ越した日の事だ。会社を兼ねた叔父の家は三階建てで、僕は最上階の八畳を貰ったのだが、驚いた事に南側に付いている窓から隣に立つアパートの二階の部屋が半分位見えるのだ。向こうからは状況が全く解らないらしく、隠そうとする気配はない。

「いい環境だろ?」

 いつの間に入ってきたのか、コウちゃんが声を掛ける。

「何が」

「惚けやがって。あの部屋、女の子だぞ」

「え」

「女のコ、じゃないな。二十七、八だろう。まあ残念だが全部は覗けない」

「犯罪だよコウちゃん…っていうか、何でそんな事知ってんの」

「俺が使ってたんだよ、この部屋。タカが来るって聞いて明け渡す事にしたんだ。お前にも人生の勉強が必要だからな」

 コウちゃんは無遠慮にカラカラと笑い部屋を出て行く。何の勉強だか。僕は高鳴る鼓動を抑えて再び見下ろした。風が和んだ早春の日曜、その人は窓辺で洗濯物を畳んでいる。目に飛び込んで来た花畑みたいなランジェリーが、慌てて閉じた瞼の裏でくるくると踊った。





 男兄弟しかいない僕にとって年上の女性は本当に未知数で、初めはあらゆる事に過剰反応した。だが夏を迎える頃には興奮も収まり、その代わり別の感情が湧き始めた。それは熱帯魚を飼うのに似ていた。熱帯魚は何か話し掛けて来る訳ではないが、眺めるだけで癒されてしまう。彼女も同じ存在だった。実験に失敗した時も気にしていた子が彼氏持ちと解った時も、無造作に髪をまとめる仕草や静かに本をめくる姿が、僕を次第に安らかにした。

 瞬く間に秋が去り、冬の街に軽薄な電飾が輝き出した頃。その日自転車で家に着くと誰かの声が聞こえた。アパートの入り口に彼女の姿がある。前に男が一人立っていた。

「またね」

 手を振る彼女に男は頷き駅の方へクールに歩いていく…積りだったろうが十歩程進むと鼻歌を唄い出した。上機嫌が身体中から立ち上っている。しかし稀に見る音痴だ。苦笑する脳裏を彼女の笑顔が過ぎる。少しだけ寂しさが伴った。




 年が明けバレンタインを目前に控えたある夜、部屋に帰るとコウちゃんが僕のテナーサックスと格闘していた。

「それじゃ音は出ないって。今度教えるから」

「中一から吹いてるもんな。駅前のカフェでライブ演るんだって?お前の大学のジャズ研。ポスター見たよ」

「来月ね」

「コーヒーにジャズ。決まってんな。俺も行こうかな」

 僕は南側のカーテンを少し開けた。彼女の部屋は閉まっている。

「彼氏出来たんだな」

「え」

 僕は振り返った。コウちゃんは、当然お前も知ってんだろ、と言わんばかりの上目遣いだ。

「一昨日の朝、二人でアパートから出て来た」

「…」

「多分あの男、余程彼女に惚れたか余程野獣か、どっちかだな」

 コウちゃんは淡々と語った。僕は数秒黙り込み、やがて

「どっちなの」

 と呟くと、

「そうだな…野獣の方に一万円」

 コウちゃんは複雑そうに笑った。





 ぴったりと閉じられた窓の向こう、熱帯魚は蒼く滑らかな肌を上気させ、狂おしい程深みに嵌る。くぐもった猛々しい息遣いと、か細く妖しい声がユニゾンで絡み合い、最低気温が氷点下の透明な夜も、真夏の中で激しく跳ねた。

「タカ、最近ヤラシイ音で吹くじゃないか」

 ある日先輩がからかった。ジャズでヤラシイとは褒め言葉の一種なのだが、僕の勝手な妄想の内容は口が裂けても言えない。

 二年目の春。ライブの評判は上々で、早くもカフェでの次のステージが決まった。

「音楽もいいけど、早く彼女作れよ」

 コウちゃんが言う。

「自分こそ」

 僕は負けずに切り返す。

「俺は懲りたの」

 コウちゃんはむくれた。





 彼女と音痴な男の雲行きが怪しくなり始めたのはいつ頃だったろう。窓の向こうの彼女の表情は気付いたら既に梅雨空に似たグレーだった。僕はざわついたが、七月に入り試験や課題に追われる様になると自分の事で手一杯になった。

「タカ、来週誕生日だな」

 明日は小暑と天気予報が伝えた夜、コウちゃんが言った。

「二十歳だろ。バーデビューしようぜ」

コウちゃんは嬉しそうだった。当日、バーなんてと眉を顰める叔母さんを尻目にコウちゃんは僕を連行した。

 北口の、ビジネスホテルの隣の二階にその店はあった。ほの暗いドアを押すと煙草の匂いと人いきれが週末のライトに渦巻いている。カウンターの前のテレビでストーンズのライブビデオを流していた。

「こちらへどうぞ」

 中から感じのいい女性の声がする。

「ジンライム」

 コウちゃんが言う。

「僕も」

「まだ無理。ジンフィズ、ソーダ多めで」

 女性は笑顔でグラスを取り出した。立ち並ぶ酒瓶とセンスのいいレコードジャケット。大人の世界。北口の周辺整備でこの辺りに放送局が移転すると聞いたが、心の奥行きを知るこんな店はどうか無くさないでいて欲しい。

「タカ」

 にわかにコウちゃんが僕の腕を突付いた。示された方に顔を向ける。彼女だ。そしてあいつ。

「ここで会うとはな」

 コウちゃんが囁いた。彼等は僕達と二人挟んだ隣にいて、白ワインを開けていた。口唇を結びグラスを凝視する彼女と、憂鬱そうに紫煙を燻らす男。僕等の前にカクテルが置かれた。コウちゃんが美味そうに飲んだ。僕はちびりと啜った。爽やかな甘味とレモンの裏で、ジンが無邪気にキックする。

 彼女が男に何か喋る。男は口元を歪めて笑い、煙と共に言葉を吐き捨てた。彼女は追い縋った目で男を見た。僕は顔を逸らしてストーンズを睨み付けると一息にグラスを煽った。

「お前が興奮してどうする」

 コウちゃんが窘める。

「おかわり」

 コウちゃんは溜め息を付きグラスを空にすると、僕の分と一緒に二杯目を頼んだ。

 やがて客の一組が席を立ち、それを機に僕等と彼女達を隔てていたカップルも店を出た。バーには適度な緩さが戻る。

「お前(おまん)に見る目がなかったっちゅうこんだね」

 突然あけすけな甲州弁が響いた。

「お互いさあ、限られた人生じゃん?その中でもっといろんな人と出会ってさあ、より良いベターなのを探そうぜ。次行こうよ、次。なあ、イオリさん」

 刺々しく陽気に男は言った。

「より良いとベターは同じだろう」

 コウちゃんが小声で突っ込む。

 僕は男を眺めた。三十五、六といった所か。年齢不詳の軽さにたじろぐ。今、この男はまだベターな女を探すと言った。そして幸せな事に、探し当てたベターが自分の方を向くと信じて疑わない訳だ。

「そんなに気に入らない所があったなら、こうなる前に話してくれても良かったんじゃないかな」

 彼女は言う。

「何で?俺、それ話さないといけなかったの?俺は別にどうでもいーんだけど」

 男はうんざりした様相で煙草を揉み消した。

「私は本気で、クドウさんが一番だと思って付き合って来たわ」

 彼女が言った。

「それはどうも。でもそういうこんは言わん方がいいな。じゃ」

 男はそれ切り店を後にした。安っぽい捨て台詞が僕の鼓膜に張り付いている。




 彼女は少しの間俯いていたが不意に顔を上げた。

「ジントニック下さい」

 オーナーの女性は微笑み、温くなったワインをそっと下げた。新しいグラスが来る。彼女は香りを確かめるとすぐに半分程流し込んだ。

「強え」

 コウちゃんが唸る。すると彼女は僕等の視線に気付いた。さすがのコウちゃんも言葉に詰まった。だが彼女は悪びれる事なく笑いかけた。

「恥ずかしいです」

「いえ」

 瞬時にコウちゃんが反応した。

「いい別れっぷりでした。文句一つ言わず」

 すると彼女は困った風に眉を寄せ

「違うんです」

 と言った。

「彼と終わるのは解ってました」

 結い上げた髪に続く白い項がライトに浮き出ている。

「でも、別れたがってる人に欠点や文句を言ってあげる程、私は親切じゃありません」

「え」

「万が一、彼が私の言った事を反省していい人に変わって、次に付き合う人と巧く行ったら、私はただの踏み台じゃないですか。それは堪らないわ」

 彼女は目を伏せる。

「最後くらい意地悪してもいいかなと思って。彼にはこの先もあのままでいて貰わないと」

「…」

「なんてね。今のは忘れて下さい。振られた女の戯言です」

 涼やかな目元で彼女は笑う。ライムの香りに噎ぶ様に、グラスの氷が音を立てた。





 彼女が店を出た後、僕とコウちゃんはひたひたに飲み続けた。帰り際、思いがけぬ土砂降りを全身に浴びながら、僕は回らぬ舌でコウちゃんに絡んだ。

「女って、みんなあんなに強くて怖い訳?」

「ああ、強くて怖い」

 コウちゃんが歌う様に答えた。

「強くて怖くて、メチャクチャ愛しい」

 仰いだ空に向かいコウちゃんは言った。鋭い稲妻が駆ける。

「梅雨明けだ!」

 痛い程の雨粒が僕等を覆った。

 翌日はけじめに相応しい夏日になった。窓を開ける。彼女は朝から部屋中を掃除していた。ベランダのゴミ袋には、きっと彼の靴下や体温が詰まっている。よく見ると彼女は段ボール箱に本やCDを入れていた。思い出ごとそっくりどこかへ売る気らしい。潔いピリオドの打ち方。彼女の知らないところから、僕は笑いかける。

 焦れる事は決して甘美じゃない。目映い風の中で彼女の洗濯物が言う。焦れるとは、灼熱色した群青の夜を幾度も越えて行く事。

 入道雲を掴み損ねて、僕は背伸びをする。

 夏を抱いた熱帯魚が、蒼い波間に高く弾けた。








Ultramarine by Hank Mobley



初出:「月刊マイタウン」2004年

加筆・修正:2021年7月



 Summertime Blues 3  7月28日更新予定


文:創る『Summertime Blues 1: Blue Minor』(小説)


 一人の時間が好きだ。

 高校一年でこんな事を言うのは少し可笑しいかも知れない。でも私は洗面所に行ったり教室移動をしたりするのに、誰かと一緒でなければ出来ないタイプではない。友達がいないのとは違う。お昼には席の近いクラスメイトが誘ってくれるし、話も一応する。ただ、一人でいるのが好きなのだ。変だろうか。変に決まっている。何にしても可愛気はない。

 だからまさか自分が男子から声を掛けられる事があるなんて、思ってもみなかった。

 五月の連休明け、席替えをした後だった。

「へえ、こんなの読むんだ」

 彼はそう言い、机に置いてあった文庫本を手に取った。長く伸びる五本の指が、初めて出会う生き物の様だ。

「これ、面白い?」

 私は首を縦に振った。

「じゃあ終わったら貸してよ」

 ごく普通に彼は言った。唐突な出来事に声も出なかった。

 それがはずみで、私は彼と少しずつ話をする様になった。暇さえあれば洋画を借りて観るのだと、彼は眩しそうに笑いながら言う。時々彼の手を眺めた。未知の生物といった印象は変わらなかったが決して嫌なものではなく、むしろ血の通った温かい感じがした。





 「バイトしないか」

 ある日の放課後、彼はホームセンターの花卉コーナーのチラシを取り出した。

「ここなら近いだろ。週一だし」

「いいけど、何で」

 私は彼を見た。額に汗が浮かんでいる。

「いや、フルヤはこういうの好きかなって」

 彼は笑って私を見た。初夏の風が教室に膨らむ。その笑顔にどう答えていいか解らず、私は黙ったまま曖昧に頷いた。

 早速翌週からバイトが始まった。私の仕事は表にあるプランター類の世話だ。ハーブ、果実の苗木、ガーデニングフラワー。青く乾いた暑さの中、思い思いに背を伸ばした植物が所狭しと並んでいる。水を遣ると、花びらや葉の色、土の匂いまでもが一瞬にして変わった。爽やかな癒しに気持ちがほぐれて行く。ジョウロを片手に空を仰いだ。夏を遠く目指した雲が悠々と流れている。《フルヤはこういうの、好きかなって》彼の声が胸に灯った。





 それから間もなく本格的に梅雨入りした。雨は朝から降り続き、制服のスカートをじっとりと濡らす。重苦しい気分で学校から戻ると、驚いた事に父が帰っていた。考えられない程早い時間だ。リビングの父は押し黙って灰色の庭を見詰め、薄いエアコンに身体を預けていたが、気配に気付きこちらを振り返った。

「お帰り」

 私はぎこちなく言った。

「ただいま」

 父は微笑んだ。キッチンを見遣る。

「あらレイ、早かったのね。すぐ御飯よ」

 いつもと同じ母の声が、微かに翳って聞こえた。

 夕食後漸く雨は止み、私は二階へ上がるとベランダに出た。情けなく湿った半月がぼんやりと掛かっている。階下から両親の話し声が聞こえた。リビングの窓を開けたらしい。

 洩れて来る台詞を血眼で理解しようとした。そうしなければ到底受け入れる事など出来なかったからだ。何故父が会社で苛められなければならないのだろう。お菓子から文書まで、配られるべき物が回って来ない。書類を隠され紛失したと告げ口される。残業をしている目の前でタイムカードを押され、帰った事にされてしまう。いい歳をした大人のする事ではない。

「酷い」

 母の沈痛な声がした。

「低俗なリストラ政策だ」

 父の声が響く。

「余程『目の上の瘤』なんだろう。お前には色々と心配かけて済まない」

 決して気が合う訳ではないが、父の生真面目さを思うと心が軋んだ。しかし私にはどうする事も叶わなかった。





 時だけが悪戯に過ぎ、気が付くと一学期の期末試験が目前になっていた。

「キレイに焼けてるね」

 休み時間、数学のプリントを解く私に一人の女子が話し掛けて来た。前から二番目、図書委員の子だ。いつだったか貸し出しカウンターの向こう側で退屈そうに雑誌を読んでいたのを思い出す。

「バイトで」

 外で仕事をしているせいか私は褐色に日焼けしていた。

「何のバイト?」

 問い掛けられた途端チャイムが鳴った。慌てた様に彼女は続けた。

「あのさ、今日一緒に帰らない? 同じバスだし」

 私は顔を上げた。

「フルヤさんて大人だよね」

「オトナ?」

「うん。頭いいし一人でいられるし、カッコいい。だからずっと話してみたかったんだ」

 彼女は朗らかに言った。

 カッコよくなんかない。慣れない嬉しさがこそばゆくて仕方なかった。もしかしたら今まで無意識のうちに他人を遠ざけていたのかも知れない。一人でいるのが好きなのと他人を寄せ付けないのは別だ。外を見る。小雨に包まれた白いアジサイが校庭の隅で微笑んだ。





 七月に入り初めてお給料を貰った時、自然と彼の事が浮かんだ。バイトを紹介してくれたお礼をまだしていない。教えて貰った映画の数もとうに十本を越えているのに。学校帰り、私は駅ビルの雑貨店へ向かった。文具やマグカップが頭を巡る。四階でエスカレーターを降り、思わず足を止めた。右手のCDショップに彼がいる。素早く反対側の書店へ駆け込んだ。すると入れ違いに通り過ぎる人影があった。いい香りのする他校のセーラー服。彼女はCDショップに入ると彼の横へ立ち、その手に自分の手を絡めた。照れ臭そうに彼が微笑む。教室では見た事のない顔。安直で喧しいBGMが身体中で振動した。

 彼にカノジョがいるとクラスで噂になったのはその後すぐだ。一つ上なのだと誰かが言った。通学途中に電車の中で彼女から告白されたとも聞こえた。

「そうか、アツキもこの夏オトコになるんだあ」

 男子の一人が叫んだ。

「バカ言うなよ」

 彼はそっぽを向いて言った。





 終業式を翌週に控えた金曜、委員会から教室へ戻ると、彼が一人で残っていた。きつい西日を一身に浴びている。

「待ってたんだ」

 私は俯いた。堅い表情が張り付いて離れない。

「これ、ありがとう」

 彼が何か差し出した。それは最初に話し掛けられた時に貸した文庫本だった。

「遅くなってごめん」

「ううん」

 私は床を見詰めたまま手を伸ばし、本を受け取った。

「また貸してな」

 僅かに彼の指が触れた。

「うん」

 素早く鞄に仕舞い込む。

「じゃあ」

 彼はいつもの笑顔に戻ると教室を出て行った。立ち尽くす指先に擦れ合った温度が残り、ヒリヒリと痺れて痛い程熱かった。

 その夜はバケツをひっくり返した様な土砂降りになった。幾度となく派手に雷が鳴る。風呂上がりの父が、

「梅雨明けか」

 と言った。

「そうね」

 母が応えた。穏やかな父と陽気な母。あれからも二人は変わらない。だから私も普段通り素っ気無く振舞った。自分に出来る精一杯だった。激しい雷鳴が轟く。夏は破天荒な音を立て出し抜けにやって来るらしい。





 天気予報通り夏日になった翌日の昼間、私は一回り以上年の離れた姉の所へと自転車を走らせていた。午前中来客があり、お土産が『ハノン』のケーキだったのだ。ショッピングモールの外れにあるこの店を、姉は特に気に入っていた。

「レイ、届けてやってくれる? 黙って食べたりしたらイオリに恨まれるから」

 母が苦笑する。姉は駅の近くに一人暮らしをしていた。

「お姉ちゃん、何してるの?」

 ドア越しに姉を見て私は尋ねた。肩まで伸びた髪をポニーテールにし、エプロンを着け雑巾を握り締めている。奥に本やCDが散乱しているのが見えた。

「大掃除よ。丁度いいところに来たわね。夕方、山の手通りのブックオフに買い取りに来て貰うんだけど、欲しいのがあったらあげるわ」

 姉はケーキの箱を受け取りながら言った。足の踏み場もない程散らかった部屋は大きく開け放たれ、夏の空気で満たされている。私は隙間に座り込み段ボール箱へ目を遣った。

「これ全部売るの?」

「そう。私の好みじゃないものが多いのよ」

 じゃあ何で買ったの?と喉元まで出掛かったが、

「さあ食べるぞ」

 という姉の威勢のいい決意に押し戻された。

 スピーカーからは相変らずジャズが流れ、窓から滑り込む涼風が音の狭間を撫でる様に通り過ぎる。一体何をこんなに処分するんだろうと箱を覗き込んだ私の視線は、一本のDVDの上ではたと止まった。それは彼が初めて教えてくれた映画だった。眩し気な瞳が蘇る。《大人になるのも悪くないなあって思える映画なんだ》耳朶の裏に確かな呼吸を感じた。《フルヤならきっと、気に入ると思う》

「レイ、どうしたの?」

 姉の声にはっとした。堪えようと喉へ力を入れる。姉は暫く黙っていたが急に立ち上がると

「洗濯物でも取り込むか」

 と呟いて、一人ベランダへ下りた。

「いい天気ねえ」

 姉は呑気に言った。私は相鎚も打たずに聞いていた。

「でもさあ、心まで快晴って訳には行かない時も、あるわよね」

 私は振り返った。姉は後ろを向いたまま空を見上げている。細い背中がぼやけて、雫に映った残像と共に頬を流れ落ちた。ケーキの甘さと古いジャズが、夏の午後へと舞い上がる。

 夕方、家へ帰ると父が庭先に立っていた。水を撒き終えた後らしく、朝顔の蔓が煌いている。

「レイか。お帰り」

 父が振り向いた。

「ただいま」

「イオリはいたか」

「うん。大掃除してた」

「こんな時期にか。イオリらしいな」

 父は声を立てて笑った。白いポロシャツに水滴が遊んでいる。歌い足りない蝉達の残響が、山の木立まで伸びていた。

「お父さん」

 私は小さく呼びかけた。父がこちらを見る。

「無理、しないでね」

 何という平凡な言葉だろう。私は呆れて下を向いた。しかし父は少し置くと真っ直ぐに前を見詰めて言った。

「ありがとう。父さんは大丈夫だ。心配しなくていい」

 白髪が目立つ眼鏡の横顔は穏やかに微笑んでいる。私は庭を見渡した。植物達は父と同じ顔をして、静寂の中に佇んでいた。

 夜、姉に貰ったボサノバのCDを聴きながら窓を開けた。熱っぽい地面に闇が降り、山の稜線を緩やかに縁取っている。何処からか届く花火に興じる楽しそうな声が、掠めては過ぎる記憶の断片を次々に吸い込んで行った。

 蒼い夜風を身体に感じて私は目を閉じる。

 夏は始まったばかりだと、庭の緑が囁いた。







Blue Minor by Sonny Clark



初出:「月刊マイタウン」2004年

加筆・修正:2021年7月



Summertime Blues 2    7月21日更新予定