文:創る『Summertime Blues 1: Blue Minor』(小説)


 一人の時間が好きだ。

 高校一年でこんな事を言うのは少し可笑しいかも知れない。でも私は洗面所に行ったり教室移動をしたりするのに、誰かと一緒でなければ出来ないタイプではない。友達がいないのとは違う。お昼には席の近いクラスメイトが誘ってくれるし、話も一応する。ただ、一人でいるのが好きなのだ。変だろうか。変に決まっている。何にしても可愛気はない。

 だからまさか自分が男子から声を掛けられる事があるなんて、思ってもみなかった。

 五月の連休明け、席替えをした後だった。

「へえ、こんなの読むんだ」

 彼はそう言い、机に置いてあった文庫本を手に取った。長く伸びる五本の指が、初めて出会う生き物の様だ。

「これ、面白い?」

 私は首を縦に振った。

「じゃあ終わったら貸してよ」

 ごく普通に彼は言った。唐突な出来事に声も出なかった。

 それがはずみで、私は彼と少しずつ話をする様になった。暇さえあれば洋画を借りて観るのだと、彼は眩しそうに笑いながら言う。時々彼の手を眺めた。未知の生物といった印象は変わらなかったが決して嫌なものではなく、むしろ血の通った温かい感じがした。





 「バイトしないか」

 ある日の放課後、彼はホームセンターの花卉コーナーのチラシを取り出した。

「ここなら近いだろ。週一だし」

「いいけど、何で」

 私は彼を見た。額に汗が浮かんでいる。

「いや、フルヤはこういうの好きかなって」

 彼は笑って私を見た。初夏の風が教室に膨らむ。その笑顔にどう答えていいか解らず、私は黙ったまま曖昧に頷いた。

 早速翌週からバイトが始まった。私の仕事は表にあるプランター類の世話だ。ハーブ、果実の苗木、ガーデニングフラワー。青く乾いた暑さの中、思い思いに背を伸ばした植物が所狭しと並んでいる。水を遣ると、花びらや葉の色、土の匂いまでもが一瞬にして変わった。爽やかな癒しに気持ちがほぐれて行く。ジョウロを片手に空を仰いだ。夏を遠く目指した雲が悠々と流れている。《フルヤはこういうの、好きかなって》彼の声が胸に灯った。





 それから間もなく本格的に梅雨入りした。雨は朝から降り続き、制服のスカートをじっとりと濡らす。重苦しい気分で学校から戻ると、驚いた事に父が帰っていた。考えられない程早い時間だ。リビングの父は押し黙って灰色の庭を見詰め、薄いエアコンに身体を預けていたが、気配に気付きこちらを振り返った。

「お帰り」

 私はぎこちなく言った。

「ただいま」

 父は微笑んだ。キッチンを見遣る。

「あらレイ、早かったのね。すぐ御飯よ」

 いつもと同じ母の声が、微かに翳って聞こえた。

 夕食後漸く雨は止み、私は二階へ上がるとベランダに出た。情けなく湿った半月がぼんやりと掛かっている。階下から両親の話し声が聞こえた。リビングの窓を開けたらしい。

 洩れて来る台詞を血眼で理解しようとした。そうしなければ到底受け入れる事など出来なかったからだ。何故父が会社で苛められなければならないのだろう。お菓子から文書まで、配られるべき物が回って来ない。書類を隠され紛失したと告げ口される。残業をしている目の前でタイムカードを押され、帰った事にされてしまう。いい歳をした大人のする事ではない。

「酷い」

 母の沈痛な声がした。

「低俗なリストラ政策だ」

 父の声が響く。

「余程『目の上の瘤』なんだろう。お前には色々と心配かけて済まない」

 決して気が合う訳ではないが、父の生真面目さを思うと心が軋んだ。しかし私にはどうする事も叶わなかった。





 時だけが悪戯に過ぎ、気が付くと一学期の期末試験が目前になっていた。

「キレイに焼けてるね」

 休み時間、数学のプリントを解く私に一人の女子が話し掛けて来た。前から二番目、図書委員の子だ。いつだったか貸し出しカウンターの向こう側で退屈そうに雑誌を読んでいたのを思い出す。

「バイトで」

 外で仕事をしているせいか私は褐色に日焼けしていた。

「何のバイト?」

 問い掛けられた途端チャイムが鳴った。慌てた様に彼女は続けた。

「あのさ、今日一緒に帰らない? 同じバスだし」

 私は顔を上げた。

「フルヤさんて大人だよね」

「オトナ?」

「うん。頭いいし一人でいられるし、カッコいい。だからずっと話してみたかったんだ」

 彼女は朗らかに言った。

 カッコよくなんかない。慣れない嬉しさがこそばゆくて仕方なかった。もしかしたら今まで無意識のうちに他人を遠ざけていたのかも知れない。一人でいるのが好きなのと他人を寄せ付けないのは別だ。外を見る。小雨に包まれた白いアジサイが校庭の隅で微笑んだ。





 七月に入り初めてお給料を貰った時、自然と彼の事が浮かんだ。バイトを紹介してくれたお礼をまだしていない。教えて貰った映画の数もとうに十本を越えているのに。学校帰り、私は駅ビルの雑貨店へ向かった。文具やマグカップが頭を巡る。四階でエスカレーターを降り、思わず足を止めた。右手のCDショップに彼がいる。素早く反対側の書店へ駆け込んだ。すると入れ違いに通り過ぎる人影があった。いい香りのする他校のセーラー服。彼女はCDショップに入ると彼の横へ立ち、その手に自分の手を絡めた。照れ臭そうに彼が微笑む。教室では見た事のない顔。安直で喧しいBGMが身体中で振動した。

 彼にカノジョがいるとクラスで噂になったのはその後すぐだ。一つ上なのだと誰かが言った。通学途中に電車の中で彼女から告白されたとも聞こえた。

「そうか、アツキもこの夏オトコになるんだあ」

 男子の一人が叫んだ。

「バカ言うなよ」

 彼はそっぽを向いて言った。





 終業式を翌週に控えた金曜、委員会から教室へ戻ると、彼が一人で残っていた。きつい西日を一身に浴びている。

「待ってたんだ」

 私は俯いた。堅い表情が張り付いて離れない。

「これ、ありがとう」

 彼が何か差し出した。それは最初に話し掛けられた時に貸した文庫本だった。

「遅くなってごめん」

「ううん」

 私は床を見詰めたまま手を伸ばし、本を受け取った。

「また貸してな」

 僅かに彼の指が触れた。

「うん」

 素早く鞄に仕舞い込む。

「じゃあ」

 彼はいつもの笑顔に戻ると教室を出て行った。立ち尽くす指先に擦れ合った温度が残り、ヒリヒリと痺れて痛い程熱かった。

 その夜はバケツをひっくり返した様な土砂降りになった。幾度となく派手に雷が鳴る。風呂上がりの父が、

「梅雨明けか」

 と言った。

「そうね」

 母が応えた。穏やかな父と陽気な母。あれからも二人は変わらない。だから私も普段通り素っ気無く振舞った。自分に出来る精一杯だった。激しい雷鳴が轟く。夏は破天荒な音を立て出し抜けにやって来るらしい。





 天気予報通り夏日になった翌日の昼間、私は一回り以上年の離れた姉の所へと自転車を走らせていた。午前中来客があり、お土産が『ハノン』のケーキだったのだ。ショッピングモールの外れにあるこの店を、姉は特に気に入っていた。

「レイ、届けてやってくれる? 黙って食べたりしたらイオリに恨まれるから」

 母が苦笑する。姉は駅の近くに一人暮らしをしていた。

「お姉ちゃん、何してるの?」

 ドア越しに姉を見て私は尋ねた。肩まで伸びた髪をポニーテールにし、エプロンを着け雑巾を握り締めている。奥に本やCDが散乱しているのが見えた。

「大掃除よ。丁度いいところに来たわね。夕方、山の手通りのブックオフに買い取りに来て貰うんだけど、欲しいのがあったらあげるわ」

 姉はケーキの箱を受け取りながら言った。足の踏み場もない程散らかった部屋は大きく開け放たれ、夏の空気で満たされている。私は隙間に座り込み段ボール箱へ目を遣った。

「これ全部売るの?」

「そう。私の好みじゃないものが多いのよ」

 じゃあ何で買ったの?と喉元まで出掛かったが、

「さあ食べるぞ」

 という姉の威勢のいい決意に押し戻された。

 スピーカーからは相変らずジャズが流れ、窓から滑り込む涼風が音の狭間を撫でる様に通り過ぎる。一体何をこんなに処分するんだろうと箱を覗き込んだ私の視線は、一本のDVDの上ではたと止まった。それは彼が初めて教えてくれた映画だった。眩し気な瞳が蘇る。《大人になるのも悪くないなあって思える映画なんだ》耳朶の裏に確かな呼吸を感じた。《フルヤならきっと、気に入ると思う》

「レイ、どうしたの?」

 姉の声にはっとした。堪えようと喉へ力を入れる。姉は暫く黙っていたが急に立ち上がると

「洗濯物でも取り込むか」

 と呟いて、一人ベランダへ下りた。

「いい天気ねえ」

 姉は呑気に言った。私は相鎚も打たずに聞いていた。

「でもさあ、心まで快晴って訳には行かない時も、あるわよね」

 私は振り返った。姉は後ろを向いたまま空を見上げている。細い背中がぼやけて、雫に映った残像と共に頬を流れ落ちた。ケーキの甘さと古いジャズが、夏の午後へと舞い上がる。

 夕方、家へ帰ると父が庭先に立っていた。水を撒き終えた後らしく、朝顔の蔓が煌いている。

「レイか。お帰り」

 父が振り向いた。

「ただいま」

「イオリはいたか」

「うん。大掃除してた」

「こんな時期にか。イオリらしいな」

 父は声を立てて笑った。白いポロシャツに水滴が遊んでいる。歌い足りない蝉達の残響が、山の木立まで伸びていた。

「お父さん」

 私は小さく呼びかけた。父がこちらを見る。

「無理、しないでね」

 何という平凡な言葉だろう。私は呆れて下を向いた。しかし父は少し置くと真っ直ぐに前を見詰めて言った。

「ありがとう。父さんは大丈夫だ。心配しなくていい」

 白髪が目立つ眼鏡の横顔は穏やかに微笑んでいる。私は庭を見渡した。植物達は父と同じ顔をして、静寂の中に佇んでいた。

 夜、姉に貰ったボサノバのCDを聴きながら窓を開けた。熱っぽい地面に闇が降り、山の稜線を緩やかに縁取っている。何処からか届く花火に興じる楽しそうな声が、掠めては過ぎる記憶の断片を次々に吸い込んで行った。

 蒼い夜風を身体に感じて私は目を閉じる。

 夏は始まったばかりだと、庭の緑が囁いた。







Blue Minor by Sonny Clark



初出:「月刊マイタウン」2004年

加筆・修正:2021年7月



Summertime Blues 2    7月21日更新予定


 

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