文:創る『Summertime Blues 2 : Ultramarine』(小説)


「Summertime Blues 1: Blue Minor」はこちらをご覧ください。

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 僕が初めて彼女を知ったのは昨年の四月、大学に合格し、宝石鑑定士の叔父の家へ下宿する事になった時だ。鑑定士と言っても、昔水晶の採れたこの街にはその名残か叔父の様な宝飾関係者が多く住んでいて、特別なものではない。
「狭い家だが、それでいいなら喜んで請け負うよ」
 叔父は快く僕を迎えてくれた。
「それに、うちには一人、むさ苦しい男が居るだろう?タカヒロ君ならあれも嬉しがるさ」
 従兄のコウちゃんはアメリカで正式な宝石鑑定士の資格を取り、今では立派な片腕として叔父の会社で働いていた。十も年上だが僕とはウマが合う。叔母さん似の整った顔立ちに叔父似の細い長身で、相当カッコいいのに何故か女運がなく、実はバツイチである。

 叔父の家に引っ越した日の事だ。会社を兼ねた叔父の家は三階建てで、僕は最上階の八畳を貰ったのだが、驚いた事に南側に付いている窓から隣に立つアパートの二階の部屋が半分位見えるのだ。向こうからは状況が全く解らないらしく、隠そうとする気配はない。

「いい環境だろ?」

 いつの間に入ってきたのか、コウちゃんが声を掛ける。

「何が」

「惚けやがって。あの部屋、女の子だぞ」

「え」

「女のコ、じゃないな。二十七、八だろう。まあ残念だが全部は覗けない」

「犯罪だよコウちゃん…っていうか、何でそんな事知ってんの」

「俺が使ってたんだよ、この部屋。タカが来るって聞いて明け渡す事にしたんだ。お前にも人生の勉強が必要だからな」

 コウちゃんは無遠慮にカラカラと笑い部屋を出て行く。何の勉強だか。僕は高鳴る鼓動を抑えて再び見下ろした。風が和んだ早春の日曜、その人は窓辺で洗濯物を畳んでいる。目に飛び込んで来た花畑みたいなランジェリーが、慌てて閉じた瞼の裏でくるくると踊った。





 男兄弟しかいない僕にとって年上の女性は本当に未知数で、初めはあらゆる事に過剰反応した。だが夏を迎える頃には興奮も収まり、その代わり別の感情が湧き始めた。それは熱帯魚を飼うのに似ていた。熱帯魚は何か話し掛けて来る訳ではないが、眺めるだけで癒されてしまう。彼女も同じ存在だった。実験に失敗した時も気にしていた子が彼氏持ちと解った時も、無造作に髪をまとめる仕草や静かに本をめくる姿が、僕を次第に安らかにした。

 瞬く間に秋が去り、冬の街に軽薄な電飾が輝き出した頃。その日自転車で家に着くと誰かの声が聞こえた。アパートの入り口に彼女の姿がある。前に男が一人立っていた。

「またね」

 手を振る彼女に男は頷き駅の方へクールに歩いていく…積りだったろうが十歩程進むと鼻歌を唄い出した。上機嫌が身体中から立ち上っている。しかし稀に見る音痴だ。苦笑する脳裏を彼女の笑顔が過ぎる。少しだけ寂しさが伴った。




 年が明けバレンタインを目前に控えたある夜、部屋に帰るとコウちゃんが僕のテナーサックスと格闘していた。

「それじゃ音は出ないって。今度教えるから」

「中一から吹いてるもんな。駅前のカフェでライブ演るんだって?お前の大学のジャズ研。ポスター見たよ」

「来月ね」

「コーヒーにジャズ。決まってんな。俺も行こうかな」

 僕は南側のカーテンを少し開けた。彼女の部屋は閉まっている。

「彼氏出来たんだな」

「え」

 僕は振り返った。コウちゃんは、当然お前も知ってんだろ、と言わんばかりの上目遣いだ。

「一昨日の朝、二人でアパートから出て来た」

「…」

「多分あの男、余程彼女に惚れたか余程野獣か、どっちかだな」

 コウちゃんは淡々と語った。僕は数秒黙り込み、やがて

「どっちなの」

 と呟くと、

「そうだな…野獣の方に一万円」

 コウちゃんは複雑そうに笑った。





 ぴったりと閉じられた窓の向こう、熱帯魚は蒼く滑らかな肌を上気させ、狂おしい程深みに嵌る。くぐもった猛々しい息遣いと、か細く妖しい声がユニゾンで絡み合い、最低気温が氷点下の透明な夜も、真夏の中で激しく跳ねた。

「タカ、最近ヤラシイ音で吹くじゃないか」

 ある日先輩がからかった。ジャズでヤラシイとは褒め言葉の一種なのだが、僕の勝手な妄想の内容は口が裂けても言えない。

 二年目の春。ライブの評判は上々で、早くもカフェでの次のステージが決まった。

「音楽もいいけど、早く彼女作れよ」

 コウちゃんが言う。

「自分こそ」

 僕は負けずに切り返す。

「俺は懲りたの」

 コウちゃんはむくれた。





 彼女と音痴な男の雲行きが怪しくなり始めたのはいつ頃だったろう。窓の向こうの彼女の表情は気付いたら既に梅雨空に似たグレーだった。僕はざわついたが、七月に入り試験や課題に追われる様になると自分の事で手一杯になった。

「タカ、来週誕生日だな」

 明日は小暑と天気予報が伝えた夜、コウちゃんが言った。

「二十歳だろ。バーデビューしようぜ」

コウちゃんは嬉しそうだった。当日、バーなんてと眉を顰める叔母さんを尻目にコウちゃんは僕を連行した。

 北口の、ビジネスホテルの隣の二階にその店はあった。ほの暗いドアを押すと煙草の匂いと人いきれが週末のライトに渦巻いている。カウンターの前のテレビでストーンズのライブビデオを流していた。

「こちらへどうぞ」

 中から感じのいい女性の声がする。

「ジンライム」

 コウちゃんが言う。

「僕も」

「まだ無理。ジンフィズ、ソーダ多めで」

 女性は笑顔でグラスを取り出した。立ち並ぶ酒瓶とセンスのいいレコードジャケット。大人の世界。北口の周辺整備でこの辺りに放送局が移転すると聞いたが、心の奥行きを知るこんな店はどうか無くさないでいて欲しい。

「タカ」

 にわかにコウちゃんが僕の腕を突付いた。示された方に顔を向ける。彼女だ。そしてあいつ。

「ここで会うとはな」

 コウちゃんが囁いた。彼等は僕達と二人挟んだ隣にいて、白ワインを開けていた。口唇を結びグラスを凝視する彼女と、憂鬱そうに紫煙を燻らす男。僕等の前にカクテルが置かれた。コウちゃんが美味そうに飲んだ。僕はちびりと啜った。爽やかな甘味とレモンの裏で、ジンが無邪気にキックする。

 彼女が男に何か喋る。男は口元を歪めて笑い、煙と共に言葉を吐き捨てた。彼女は追い縋った目で男を見た。僕は顔を逸らしてストーンズを睨み付けると一息にグラスを煽った。

「お前が興奮してどうする」

 コウちゃんが窘める。

「おかわり」

 コウちゃんは溜め息を付きグラスを空にすると、僕の分と一緒に二杯目を頼んだ。

 やがて客の一組が席を立ち、それを機に僕等と彼女達を隔てていたカップルも店を出た。バーには適度な緩さが戻る。

「お前(おまん)に見る目がなかったっちゅうこんだね」

 突然あけすけな甲州弁が響いた。

「お互いさあ、限られた人生じゃん?その中でもっといろんな人と出会ってさあ、より良いベターなのを探そうぜ。次行こうよ、次。なあ、イオリさん」

 刺々しく陽気に男は言った。

「より良いとベターは同じだろう」

 コウちゃんが小声で突っ込む。

 僕は男を眺めた。三十五、六といった所か。年齢不詳の軽さにたじろぐ。今、この男はまだベターな女を探すと言った。そして幸せな事に、探し当てたベターが自分の方を向くと信じて疑わない訳だ。

「そんなに気に入らない所があったなら、こうなる前に話してくれても良かったんじゃないかな」

 彼女は言う。

「何で?俺、それ話さないといけなかったの?俺は別にどうでもいーんだけど」

 男はうんざりした様相で煙草を揉み消した。

「私は本気で、クドウさんが一番だと思って付き合って来たわ」

 彼女が言った。

「それはどうも。でもそういうこんは言わん方がいいな。じゃ」

 男はそれ切り店を後にした。安っぽい捨て台詞が僕の鼓膜に張り付いている。




 彼女は少しの間俯いていたが不意に顔を上げた。

「ジントニック下さい」

 オーナーの女性は微笑み、温くなったワインをそっと下げた。新しいグラスが来る。彼女は香りを確かめるとすぐに半分程流し込んだ。

「強え」

 コウちゃんが唸る。すると彼女は僕等の視線に気付いた。さすがのコウちゃんも言葉に詰まった。だが彼女は悪びれる事なく笑いかけた。

「恥ずかしいです」

「いえ」

 瞬時にコウちゃんが反応した。

「いい別れっぷりでした。文句一つ言わず」

 すると彼女は困った風に眉を寄せ

「違うんです」

 と言った。

「彼と終わるのは解ってました」

 結い上げた髪に続く白い項がライトに浮き出ている。

「でも、別れたがってる人に欠点や文句を言ってあげる程、私は親切じゃありません」

「え」

「万が一、彼が私の言った事を反省していい人に変わって、次に付き合う人と巧く行ったら、私はただの踏み台じゃないですか。それは堪らないわ」

 彼女は目を伏せる。

「最後くらい意地悪してもいいかなと思って。彼にはこの先もあのままでいて貰わないと」

「…」

「なんてね。今のは忘れて下さい。振られた女の戯言です」

 涼やかな目元で彼女は笑う。ライムの香りに噎ぶ様に、グラスの氷が音を立てた。





 彼女が店を出た後、僕とコウちゃんはひたひたに飲み続けた。帰り際、思いがけぬ土砂降りを全身に浴びながら、僕は回らぬ舌でコウちゃんに絡んだ。

「女って、みんなあんなに強くて怖い訳?」

「ああ、強くて怖い」

 コウちゃんが歌う様に答えた。

「強くて怖くて、メチャクチャ愛しい」

 仰いだ空に向かいコウちゃんは言った。鋭い稲妻が駆ける。

「梅雨明けだ!」

 痛い程の雨粒が僕等を覆った。

 翌日はけじめに相応しい夏日になった。窓を開ける。彼女は朝から部屋中を掃除していた。ベランダのゴミ袋には、きっと彼の靴下や体温が詰まっている。よく見ると彼女は段ボール箱に本やCDを入れていた。思い出ごとそっくりどこかへ売る気らしい。潔いピリオドの打ち方。彼女の知らないところから、僕は笑いかける。

 焦れる事は決して甘美じゃない。目映い風の中で彼女の洗濯物が言う。焦れるとは、灼熱色した群青の夜を幾度も越えて行く事。

 入道雲を掴み損ねて、僕は背伸びをする。

 夏を抱いた熱帯魚が、蒼い波間に高く弾けた。








Ultramarine by Hank Mobley



初出:「月刊マイタウン」2004年

加筆・修正:2021年7月



 Summertime Blues 3  7月28日更新予定


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