文:創る『Summertime Blues 3: Good Morning Blues』(小説)


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 アスファルトも溶け出す程焼け付く夏の日差しが、誰も通らぬ往来にぽつんと佇んだ真っ黒い携帯電話の上に容赦なく落ちていた。アパートの前にバイクを止めて拾い上げる。まるで発火した塊だ。日陰に入りしげしげと眺めた。今時珍しいガラケーで、どうしたら持ち主のデータが出るのか見当が付かない。適当にいじると着信履歴が現れ、スクロールの途中に覚えのある名前を見付けた。フルヤイオリ。彼女の着信は七月の初めで止んでいた。アパートを見上げる。相変らず洗濯物が賑やかだ。

 突如携帯が振動した。公な職場からの着信。おもむろに出ると、やはり落とし主だった。僕は自分の名前を告げ、今夜返す約束をした。




 夜九時。駅前通りのカフェは、今日もコスモポリタンな微粒子で賑わい、自分という意識を忘れ去れる感覚が妙に心地良い。

「オサダさん?」

 不意に名前を呼ばれ僕は振り返った。

「クドウです」

 携帯の持ち主だ。《暑気払い》と称する飲み会を抜けられず遅れた事を彼は詫びた。

「助かった。無くしたら大ごとだった」

 くたびれた携帯電話を見詰めて笑う表情は悪い感じではなく、僕もアイスカフェラテを啜りながら口元を緩めた。

「君、ホクトって名前なんだ」

「は」

 彼は僕の横を指差した。専門雑誌の上に置かれた電子辞書には小さなタイプ文字でオサダホクトとラベルが貼ってある。裸眼だとしたら相当いい視力だ。

「俺はヤスヒコ」

 酒のせいか彼の舌は滑らかである。僕が結構年下と解りリラックスしたらしい。彼は尋ねた。

「この携帯、何処に落ちてた?」

「紺屋町です」

 僕は自分の住むアパートの名を告げた。すると彼は今までの饒舌さを急に失った。仕方なく僕も黙り込む。直後、彼の携帯が振動した。

「あ、どうも、お疲れ様です」

 職場を匂わせる型通りの会話が終わると、彼は快活さを取り戻し僕に向き合った。

「二次会だってさ」

「そうですか」

「じゃ、本当にありがとう」

 彼は軽く頭を下げると慌しく店を出て行った。

 結局、彼女の謎は解けぬまま僕は彼を解放した。考えたら当然だ。たまたま拾った携帯に隣の部屋に住む女性の名前があっただけじゃないか。薄っぺらい野次馬根性を反省し椅子に座り直すと、僕は二杯目のラテを頼んだ。





 彼から突然の訪問を受けたのは数日後の夜だ。

「お礼がしたくてさ。アパートの前にいるんだけど、部屋は何号室?」

 面喰った。隣の彼女はお盆休みらしく昨日から留守である。再び盛り上がるささやかな好奇心を押さえ込み、僕はルームナンバーを教えた。

 高そうなワインとウイスキーを下げて彼はやって来た。

「こんなに…。あの、良かったら上がりませんか」

 不意打ちの申し出に少し戸惑った様だったが、彼は頷いた。

「こないだは早々に帰って悪かったね」

 きょろきょろしながら彼は言った。アパートの部屋は大体左右対称に作られている。見覚えのある部屋と反対なのだろう。勝手な想像を追い払い、僕は彼に座布団を勧めた。

「食事しましたか。パスタ作ってるんで、食べて行って下さい」

「君、料理出来るの?」

「はい。学部生の頃、朝日町のビストロでバイトしてたんです」

「学部生?」

 不思議そうに尋ねる彼に、僕は今自分が大学院に在籍している事を告げた。

「二十歳位かと思ったよ。院生か。頭いーのね」

 僕は当たり前の謙遜をしたが、彼の惚けた台詞の裏に棘の様な物が潜んでいる事を、茹で上がったパスタにゴルゴンゾーラチーズのソースを絡めながら感じた。

「食いましょう」

 セロリとバターの薫風で彩られた皿をテーブルに並べ、僕は明るく言った。

「ホクト君てテレビ見ないの?」

 頬張ったパスタをワインで流し込み彼は聞いた。

「見ますよ。でも普段は音楽聴いてる事の方が多いです」

 僕は床に寝そべった四角いスピーカーを見遣った。エラ・フィッツジェラルドが唄っている。

「君もジャズなんだ」

 彼が洩らした。

「唄モノが好きで。クドウさんも聴くんですか」

「前に焼いたCDを貰った事があってさ」

 目を逸らして彼は言った。僕はワインを啜る。切れ味のいい、上品な辛口の白。

「美味いですね。喉に染み透る感じです。県産ですか」

「うん。美味いよね」

 彼は杯を重ねた。





「料理が出来て、頭が良くて、ジャズが好きか」

 軽い晩餐を終え、皿を片付けた後だった。

「何もかも俺とは違うんだな」

「え?」

 見ると彼は既にウイスキーの瓶を開けていた。

「ホクト君は、俺とは違う」

 僕の目を覗き込み彼は繰り返す。

「俺とあいつが違った様に」

 彼は澱んだ瞳で液体を流し込んだ。

「ひと月位前に別れた女がいてね」

「ええ」

「初めから俺とは大分違ってたんだ」

 音楽や映画から生活様式全体まで好みが異なったと彼は言った。

「例えば俺は、休日出来るだけ寝ているのが好き。あいつは起きて洗濯するのが好き。俺はスカートが好き。あいつはパンツが好き。ホクト君だって短いスカートの方がよくない?」

「似合ってるかどうかが問題じゃないんですか」

 彼はつまらなそうにふん、と鼻を鳴らした。

「優等生なんだね。君、オンナと付き合った事あるの?」

「一応」

「何人とHした?」

 僕は彼を見遣った。世界中を見下して斜めに歪んだ目付き。これも彼の姿の一つらしい。僕は怯まず言う。

「童貞だったらどうだって言うんですか」

 彼はふと我に返り、沈んだ声で

「悪かった」

 と呟いた。僕は台所に行き、二人分の水割りを作ると彼の前に出した。彼は済まなそうに項垂れた。






「本当は」

 違う事など承知で付き合っていたと彼は続けた。

「あいつはいろんな意味で真面目だった。でもそれが普通だって言う」

 彼はグラスを揺らす。

「俺には真似出来る筈なくて、一緒にいると自分が小さく見えてね」

「どうしてですか」

 僕は食い下がった。

「クドウさんにはクドウさんのいい所があるんじゃないんですか?彼女だってそれを認めてた筈です。何故そんなに」

 必要以上に卑屈になるんですか、と言いかけ口を噤んだ。水割りで言葉を流す。

「とにかく」

 彼は構わず話を進めた。そんな気持ちを彼女に悟られない様に、彼はいつも戯れた態度で彼女に接した。

「真剣な話は全部、ジョークで交わした。結婚話とかね」

「そんな大事な話をはぐらかしたんですか」

「君は本当にストレートだな。若いっちゅうこんだね」

 思わず出た甲州弁に、彼は自嘲的に笑った。

「まあ最後まで上手くやったよ。で、この辺が潮時かなと思って連絡を止めたら、非通知で電話して来やがった。あのガラケーに」

「どれ位付き合ってたんですか」

「半年位」

「半年付き合って何の別れ話もなかったら、普通はけじめつけたいと思いますよ」

「そう?俺はちゃんと話して別れる女なんて今までいなかったけど」

「それは」

 《軽くしか付き合って来なかったからですよ》僕は台詞を引っ込めた。





「だが、俺の快進撃もここまで」

 彼は調子を変えずに言った。

「軽いジャブは後から効くって言うけど、全く、こんな思いをするなら、貸したDVDを返したいって言われた時『いいさよう、そのぐれえやるさよう』なんて言わなきゃ良かった。取って置いて思い出に浸る様な、あいつはそんな女じゃない」

 最後に会った夜彼女は恨み言一つ言わず《気に入らない所があったなら言って》と問い掛けたそうだ。彼はうざったく感じながら彼女に答えた。

「実家のお田植えを手伝ってる時に電話された事とか、セックスの事。俺のして欲しい事を全然してくれなかったからね」

 別れ際彼女は《私に決める積りはないのね》と尋ねた。

「俺、『バカ。俺はもっとベターなのを探すんだよ。一度しかない人生、お前(おまん)なんかに決めっこねえら』って言った。でも」

 黙り込む僕に彼は続けた。

「あいつは解ってた」

 彼が彼女と本気で向き合わなかったのは、彼自身が自分のコンプレックスと向き合いたくなかったからだ。

「多分あいつはわざと俺に文句を言わせたんだと思う。あいつの文句を言えばあいつと向き合う事になる訳だし、それは結局俺が現実と向き合う事になる」

 彼はグラスを空にした。

「あいつは俺が隠してた劣等感を引き摺り出したんだ。ここを通って初めてそのことに気付いて、携帯を落としたらしい」

 あいつが誰なのかなんて今更聞く必要もない。僕は壁越しに知る彼女を思った。毎日欠かさず洗濯をし、夜中に映画で啜り泣き、会えば笑って挨拶を交わす彼女。

「あの日、部屋を見上げた瞬間妙な未練を感じてた」

 彼は言った。

「今日も洗濯物が出てるな、なんて。でも本人の姿は見えなかった。いる訳ないか。月九ドラマじゃあるまいし」

 彼は渇いた笑い声を立てた。





 何処かで花火の音がした。この時期は至る所で花火大会が開かれる。

「花火か」

 彼がぼんやりと言った。僕は閃いた。

「やりませんか」

「え?」

「そこの商店街で貰ったんです」

 僕は子供花火の束を取り出した。彼は黙って眺めていたが

「派手にやるじゃん。どっかで買い足そう」

 と言った。早速僕等は部屋を出る。すると彼は立ち止まり、回想とも喧騒ともつかぬ記憶を辿る様に隣のドアを見詰めた。僕は気付かぬ振りで階段を降りた。

「男なんて愚かだなあ」

 真昼みたいなコンビニを出た帰り道、彼は言った。

「傲慢で、脆くて、どうにもなんない癖に、それをさらけ出せなくて」

 毒気の抜けた彼の顔が下弦の月に照らされている。

「だからこそ、女性を求めるんじゃないですか?」

「大人の発言じゃんね」

 彼はからかう様に言った。

 年嵩の増した男二人で、花火に夢中になった。銀色に輝く光がコンクリートへ流れ落ち、美しさを惜しみなく晒しては消えて行く。嬌声を上げてはしゃぐ彼は無邪気で、彼女が彼を受け入れた気持ちが少し解る気がした。

 雑魚寝で夜を遣り過ごし、彼の鼾に寝不足のまま僕は朝を迎えた。ベランダの月は西へ傾き、ほの紅い雲が低く輝いている。熱いコーヒーでも淹れるか。僕は今一度空を見上げた。微冷を含む風にたゆたう終わりかけの夏は少女の様にはにかむと、スカートの青いレースの裾を翻して彼方へと駆けて行った。










Good Morning Blues by Ella Fitzgerald 



初出:「月刊マイタウン」2004年

加筆・修正:2021年7月




 


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