褒められて育つ、とか褒めると伸びる、というのは、結構昔から言われていたことで、私が幼い頃にもそういう子供の育て方をしている家庭はいくつもあったと思う。実際、両親に怒られたことがない、という同級生もいたような記憶がある。ちょっと大人しくて可愛い子で、リーダーには向いていないが、クラスメイトに人気があった。スポーツは何をやっても出来て、勉強はそれ程得意という訳ではなかったが、先生も彼女のことは多少贔屓目に見ていたかもしれない。
一方我が家は、というと、これがまたそれとは対象をなすようなウチで、何があっても決して褒めない、というのが母のモットーであるかのようであった。母曰く「褒めちゃったら、そこで満足して止まっちゃうじゃない」多分私に、ローリング・ストーンズじゃないけれど、”I can’t get no satisfaction.”と思って貰いたかったのであろう。
一人っ子で、どこへ行っても「コティちゃん(もちろん仮名)は一人っ子だからね」と言われた。一人っ子だから過保護、一人っ子だから大事にされてる、一人っ子だから我が儘。冗談ではない。色眼鏡で見るな。そう思ったのは私だけではなく、母も同じ思いで、つまり利害関係が一致していた。だから必要以上に厳しくしたかもしれない、と母は言ったことがある。
前出の子と違い、可愛くもなく、人気もなかったが、ある時、授業参観後に行われる、クラス単位のPTAの資料として配られた生徒のノートのコピーに、その彼女と私の両方が用いられた。綺麗な字で綴られた彼女のノートと、おかしなイラストと共に書かれた私の、算数のノート。先生が中身を褒めたのはどうやら私の方だったらしい。「上手にまとめてるって言ってたよ」母は帰ってきてそんなことを言った。そして「でも字は汚いわねえ。お母さん恥ずかしかったわ」と付け加えた。
そんな母だったから、あれを見つけた時にも大して驚きはしなかった。とはいえ、まさかいなくなってからもまだダメ出しされるのかい(苦笑)と思わなかったこともない。
亡くなって少ししてから、母の荷物を整理していた時、さまざまなものの中に1冊のノートを見つけた。母の父親、つまり私の祖父は、新学期になると必ず私に文房具、特に新しいノートを束で買ってくれるような人で、それは高校まで続いたのだか、その母のノートは、昔私が祖父から買ってもらったもののうちの1冊だった。私が使い切らないでいるのを見かねて、自分で使おうと思ったのだろう。
いくら親子でも、ノート類を黙って見られるのはいい気がしないものだ。まだ魂がその辺をウロウロしているような時期だったので、一瞬見るのが憚られたが、そこでストップしてしまうと整理の全てが止まってしまう訳で、それはまずいと思いながら、風の吹かぬ8月の真っ昼間にそれを開いた。
年末の献立のようなものや、何やら書類関係のメモなどがあり、ノートは数ページ書かれただけで後は白紙だった。が、そのノートと一緒に、数枚の手紙のようなものが折り畳んで挟まれていた。私はそれを開いてみた。
そこには、それはもう強烈な言葉で、私への反論が書かれていた。いや、正確に言えば、私への、ではなく、私が書いた詩への反論であった。
昔から文字を書くのが好きで、当時、この地へ引っ越してきて以来購読していた地方紙で定期的に詩や小説を募集していたため、時々いいものが出来ると投稿していたのだが、初めて新聞に載ったのは詩の方だった。嬉しかった。たとえ大きな新聞でなくても、自分の書いたものが認めてもらえたのだと思うと、自信に繋がったし、自分は好きな文を書いてもいいのだと言われたような気がした。だから本当に喜んで母にも送った。
何を詩に書いたのかといえば、実はあまりよく覚えていないのだが、恐らく当時上手く行ってなかった「関係」か何かを参考にしながら(苦笑)、悲しい物語を詩作してみたんじゃないかと思う。喜びの詩や愛の詩など、イギリス文学を学んでいた頃優れた数多くの美しい作品を読んで来てはいたが、とかく自分で、つまり私のような素人が書く場合、詩というのは喜びよりも悲しみを表すのに適した形態だと思う。悲しい気持ちをオブラートに包みながら表すのに、詩は持ってこいだ。とはいえ、白状すれば、その時何を書いたかだけでなく、誰と付き合っていてうまく行ってなかったのかも、何をそんなに悲しんでいたのかさえ、まるで記憶にない。いやこれは本当に。まあ、結局そんなもんなのだ。時が経てば。
が、母は違った。母の逆鱗に触れたのはいくつかの描写で、それがまるで私が、ものすっごく貧乏してものすっごくお金がなくて打ちひしがれているように読めてしまう、そんな部分だった。もちろんそれは詩作というフィクションの中におけるデフォルメであって、事実とはなんの関係もない。しかし母は手紙の中で怒りまくっていた。そんな不自由をさせたつもりはない。親がどんな思いでいるかも知らずに、よくこんなものが書けたものだ、と。確かに私は、何不自由なくどころではないような、サラリーマンの娘にしては実にいい生活を、長い間させて貰っていた。だから親にしてみればそりゃあ怒るに決まっているのである。
詩を送った当時、手紙こそ貰わなかったけれど、母は私を何度か直接電話などで叱り飛ばした。訳が解らなかった。なんでこれを送って怒られないといけないのだろうかと、全く理解出来なかったのを覚えている。
で、その当時の怒りが滲み出た手紙が、母のいなくなったその時に、出てきたのであった。
出さなかったということは、母だって私に見せるつもりはなかったのだろうと思う。しかし、手紙の最後にはこう綴られていた。きっと同じことを当時も言われていたに違いないのだけれど、あらためて文字で読むと、それは違った重みで私の中に残った。
「今後、もし何か書くのなら、人を悲しませるようなものではなく、人を楽しませるようなものを書きなさい。」
3年前にそれを見て以来、私は何か書こうとするたびに、その言葉を思い出す。
母とは音楽という共通の趣味はあったが、好んで聴くものは違っていた。だけど互いに理解はしていたから、母が好きな、たとえば氷川きよしさんがテレビに出ていれば、彼が歌っている時には声をかけないとか、たまにしかテレビに出ないB'zの特集があるような時には、母は黙って別の部屋へ行くとか他のことをするとかして、私に好きに見せてくれたりしていた。B'zのライブに共に行ったりしたことはなかったが(私の世代では大抵そうだ。親と一緒の歌手が好きなんていうのはまずなかった。まあ、私が吉田拓郎に行くと言った時は流石に一緒に行っても良さそうな感じだったけど(笑)。大体、中学時代からしばしば拓郎を聞くきっかけになったのは、多分母だったのだ。でもその時私は大学3年で、一人で行きたい気持ちの方が強かった)、ライブに行くのを止められたことは一度もない。
「ねえ、お母さんに何があっても絶対に、B'zの8月のライブには行ってよね」
病院で何度となく母は言った。もちろんそのつもりだった。なんと言っても30周年の記念のライブだ。行くに決まってる。
でも行けなかった。
行けなくて良かったのだと、その年の秋にWOWOWでOAを見た時に思った。もし行っていたらその場で泣き崩れて、顔面どころか身体中崩壊していたろう。
5月の終わりか6月の頭、だったように記憶している。なくなる2ヶ月前といったところか。
「ねえ、“ALONE“っていい曲ねえ」
母が突然言った。当時体調が優れない時には、母はよくラジオを聞いていた。
「何、ラジオかなんかでかかったの?」
「うん、昨日YBS(地元のラジオ局)で。とってもいい曲だなあって思ったのよ」
「今年30周年だから、いろんなところで特集するんだね」
「ああ、昨日もそんな感じだったな。今週は毎日かけるって言ってた」
「あれは古い曲なんだよ」
「そうなの?」
「だって私がまだ大学時代の曲だもん」
「そう。解らなかったわ」
「今ではそんなに頻繁にライブで演ったりしないんだけど、みんな大好きな曲だからね。私も好きだよ」
「そう。また演ればいいのにね」
「うん。本当に。また聞きたい」
なぜあの時、突然母が“ALONE“のことを言ったのか。もちろんラジオでかかっていい曲だと思ったからに他ならないのだが、あの曲の歌詞といい、そして母が言ったタイミングといい、何かの偶然にしては出来過ぎのような気もする。
幾千にも及ぶ母との思い出の中でも、あの瞬間だけは忘れ難いものとなった。だからこそ、大好きな曲だけれど、しばらくの間、あれを聞くとどうしてもいろんなことを思い出さずにはいられず、冷静には聞けなかった、実は昨年の5ERASの時にも聴きながら映像がぼやけて仕方がなかった。
その“ALONE“、今年彼らがライブスタジオで演ったものが、確か5月に動画配信となった。まあ今は多少落ち着いて見ることが出来て、「ああ今回も大賀くんがギター弾いてるなカッコいいプレイだな素敵だな嬉しいな」とか(笑)、考えることが出来る余裕も少しは生まれたが、それでもギターソロの後の、最後のサビ前の歌詞の辺りからはもう、いつ聞いてもなんだか堪らない気持ちになってくる。
私達は最後まで綺麗事だけではない、時には互いの傷口に塩を塗り込むような親子で、その辺の事情を少しぼかしながら以前小説に仕立てて書いた。ここにも上げてあるので、もし興味があればご一読頂ければと思う。タイトルの「モーニン」とは、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの“Moanin‘“でもあり、言うと興醒めだがMorning=朝、のことでもある。
命日も誕生日も7月の母の、今日は誕生日である。母がいなければ私もいなかった。だから今でも私には、誕生日の方が大切だ。
ところで、30周年のHINOTORIには行けなかったが、その1年後の出来事については、また別の機会にしこたま語らせて頂く。
Old but goodie.
古くてもいいものはいい。名曲なら尚更だ。
この名曲と並んで語るのは些か気が引けるのだが、実は先日、10年ぶりぐらいに開いたUSBメモリがある。その中に、大昔書いた小説がそっくり残っていた。
この地には昔「月刊マイタウン」という雑誌があり、県内のあらゆる情報が載っているという点で、新しくこの地に来た人だけでなく、地元の人にも愛されていた。廃刊になって久しいが、実はこの雑誌に小説を短期連載させて頂いていたことがある。その原稿だ。夏が舞台の3部作が2つ、ごそっと出てきて、なんだか懐かしくなって読み返してみた。
これが悪くなかった。意外にも。
もちろん、その時の気分で、或いは単なる未熟さゆえに、若干修飾語が華美だったり、説明が覚束なかったりはするのだが、話の筋としてはなかなか面白く読むことが出来た。
書いたのは2004年と2007年。今からかれこれ15年くらい前だが、今読んでもいいんじゃないかとさえ思ってしまった。
そこで、折角なので、恥のかきついでにここに載せてみようかと思う。
私の書くものには時事ネタが数多く登場するので、「携帯のストラップ」とか「ソーシャル・ネットワーキング・サービスとかいうもの」など、今は常識か既に死語(笑)とになった言葉も出てくるのだが、まあそれはそれ、修正できる範囲で出来るものはして、出来ないものはまあ、懐メロみたいなもんで、懐かしんで楽しんでもらえればいいかと思う。
これを書いた時、母は「あんたもまあ、よく書いたわね」と呆れ半分に笑って言ったものだが、決して怒りはしなかった。多分それなりに楽しんでくれたのだと思う。
まずは今週末を目安に、2004年に書いたものから一部ずつアップしていく。途中で他の記事や短歌が入るかもしれないが、右の「小説」から引っ張って貰えれば、と思う。
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