言葉というのは難しいもんだと思う。特にそれが、書き言葉ではなく話し言葉であった場合。
大好きな海外ドラマ「エレメンタリー」でも、一時期だけシャーロックの恋人になるフィオナの台詞に「言葉は話すより書く方が好き。後から書き換えられるから」というのがあり、何気ないけど深いよな、と思ったことがある。
入試問題だって、リーディングの方が得点しにくいように言われているけど、読み物は時間内であれば自分のペースで何度も読み返すことが出来るのに対し、リスニングは完全に受け身になって、向こうから聞こえてくる音声を待ち構えたりついて行ったりしなければならないし、しかも繰り返して言っては貰えないのだから、こっちのが大変だとも言える。
だからこそ、それが対話ではないにしても、音として目の前の相手に発せられる言葉には、ちゃんと相手に通じるように、心を込めなければならない。そうであれば、きっと誤解されることも少ないだろうし、相手と違う意見であっても解って貰えることが多いのではないか、と思う。
2022年元日の朝日新聞の一面に、Dreams Come Trueの2人のインタビュー記事が載った。
好きでよく聴いた曲はそれなりにあるが、ドリカムに思い入れはない。全くないと言える。大ヒットを飛ばしまくっていた90年代、ドリカムの音楽は、むしろ私には白々しくさえ聞こえるものが多かった。「みんな幸せになろうね」というメッセージは、私にはほど遠いものに思えた。そんなものなれっこないのに、という疑念が拭えなかった。それほど、若い頃の私は生意気で世間知らずで、何事にも懐疑的だった。今もまあ、多少その気はあるかも知れないが。
そのドリカムが、コロナ禍を通じてどうであったかを、赤裸々に語っていた。いくつか拾ってみる。((敬称なし名字)は私がつけたもの。)
「ずっと暗闇の中。何もする気にならなくなった」(吉田)
「僕らにとって音楽とは、人と一緒にやるもの。でも今の世代は、1人で音楽を作って、発表するのが当たり前なんだよね」(中村)。その溝を「/(スラッシュ)」と表現する。「コロナと同時に、時代の線がはっきりと引かれた」
オンライン配信は「ウルトラ効率が悪い」。事務所を経営する立場でもある中村さんには厳しい現実だ。「とっくにつぶれててもおかしくない。それくらい衝撃的なことが起きてる」
「サバイブ(生き残る)するには強い心で進まなきゃ、タフにならなきゃ、って」吉田さんが約20年ぶりに本誌の取材に応じたのも、そんな理由からだ。
コロナに突きつけられた変化。とはいえ、ポップスは時代と共に移り変わるものだ。吉田さんはいう。「どう変わっていってもいい。時代と一緒に、みんなと一緒に、歩んで行けたら」
よくぞここまで正直に語ってくれたと、元日から感動さえ覚えていた。
そうか、配信ライブってそんなに採算合わないのか。多少は知っていたけど、話は事務所存亡の危機にまで及ぶのか。
ドリカムの2人ってのは多分私より上だから、自分達から見たらかなり若手のミュージシャンたちが何の衒いもなくどんどんセルフプロデュースしてリリースしていく姿を見たら、そりゃあ焦りもするだろう。しかもインスタライブなどと称して、いくらでも自分の音楽を生発信する場がある。プラットフォームが昔とはまるで違うのだ。
有名だから、人気があるから安泰って時代はもう終わった。それを証拠に、SNSを通じて、1秒前まで無名だった誰かが、いきなりスターダムにのし上がることは昨今よくある。
自分達のネームバリューに頼ってはいけない。ドリカムの2人はそのことをきっとよく解っているのだと思う。だからこんな、真っ正直なインタビューになった。言葉を尽くし、愚痴るのでも強がるのでもなく、現状をしっかりと説明する。そして今の自分達の在り方を語る。
私は昔よりずっと、ドリカムが好きになった。
とはいえ、配信ライブをなくすことには異を唱えたい。今後の更なる高齢社会を見据えても、出向かずに、自宅でゆっくりみられる環境がせっかく出来たのだから、それはずっと残していいのではないか。新しい文化として。そして、仮にどれほど採算が合わなかろうと、この現状において、音楽を心の糧とする人がいて、その人達が自由に足を運ぶことが叶うようになるまでは、続けてもらいたいと思う。
だがしかし、これくらいはっきりと、ズバッと、何のカッコもつけずにストレートに話してくれたからこそ、こちら側にいる者も、ミュージシャンの苦しい立場が理解できるのである。ドリカム級のビッグネームでさえ、金銭問題に左右されるほどの辛さ。ここまで腹を割って話してくれれば、驚きこそあれど彼らがグッと身近な存在になる。そして我が事として彼らの問題に思いを巡らすことが出来る。これが大事なんだ。話してくれなきゃだめだよ。互いの理解のために。武士じゃないんだから「食わねど高楊枝」みたいなスタイルはもう古い。
もうね、ほんとね、最近、いや暫く前からずっと長い間親友とも話してるんだけど、カッコつけて語らないってのはもうダメだよ。古い。古いのよ。ちゃんと自分の言葉で語らないと。
解ってくれてるよね?ってのは、相手=ファンに対する傲慢だ。解る訳ないじゃん。どんなにファンって言ったって、それぞれ生活あるんだし。
コロナ禍において、価値観が変わる音が日々身体中に響いた気がした。世間の、というより、私の。
そう、きっと私が変わったんだと思う。私の中の、カッコいい、の基準がガラッと変わったのかも知れない。
黙ったままポーズ作ってカッコつけてんのは、絶対的に、昭和。「俺はそうでしかあり得ない」というのはただの怠慢。時代は毎日猛スピードで変わっている。表面だけ繕ったってダメ。中身だよ。中身が変わらないと。
ガンガン稼いでビッグになってでかい家建ててイタ車乗り回して高い酒飲んでハイソな趣味持って海外に移住したりするのがステイタスだった時代はもう終わってんのよ。それって、要はカネってことじゃん?ダサいよそんなの。そうじゃなきゃおかしい。
そんな時代の方が狂っていたに決まってる。もう長いこと。いい加減目を覚さなきゃ。
もっと地に足をつけてさ、自分のルーツに根差してさ、幸せって何かなってちゃんと考えて、周りの人を見渡して、何を考えてるのかなって想像して、笑顔の多い毎日を送ろうって発信する。大賀くんみたいに。いや、こじつけじゃないよ。本当に大賀くんは、これを実践しているからさ。自分のコミュニティに集まった人達を対象にだけど。
それこそが、これからの在り方じゃない?
話が出たので(って出したんだろw)大賀くんのことを。
今現在もまだYouTubeに残っている、大賀くんの昨年末の、トランペット奏者西川綾子さんとのコラボライブ(詳細は2つ前の記事を参照して頂きたい。リンクも貼ってあるので)で、大賀くんは、自分達と客席とのあまりの近さに、新鮮な、そして嬉しい驚きを隠せない様子だった。
「こんなにお客さんに近いところで演れるなんて…。嬉しいですよね。やっぱり僕達、エネルギー貰えますから。ナマはいいですよね」
正確ではないが、そんなことを言っていたように記憶している。アヤコセンセイもそれに対して、「そうそう、私達も、聞いてもらって、こう、うんうんとか頷いてもらったりすると、全然違いますよね」という感じで返答していた。
ただ単に「ナマはいい」とだけ言われると、そこに主語がない分だけ、やっぱし行きたくても行けない立場としては正直僻みも多少入ってぶっちゃけいい気分のものではない。日本語の弱みだと思うんだけど、主語がなくても通じる文章が多過ぎるんだよね。それって言葉の行き先がどこになるのかすっごく不明瞭でよくないことがあると思う。まあ実際、英作文なんかすると、その辺の不都合が如実に現れてくるんだけど。
でもさ、こんな風に、ナマで演奏できることで自分達もエネルギー貰って、幸せを感じているんだよときちんと言葉で伝えて貰えると、ああそうだろうなあと無理なく理解することが出来る。
大賀くんってのはものすっごくストレートな人だ。
暫く前に、自らが主催するクローズドコミュニティの2次募集があった際、トライアル期間の料金形態について質問があったらしい。「なぜあっちよりこっちのが高いのか」的な感じで。
大賀くんはそれに対し、実にストレートな気持ちをそのまま文字にして投稿していた。もうそれは消えているのでここには書かないが、私はそれを見て「正直な人だなあ。ここまで言わなくても、自分をいくらでも飾ることだって出来るのに」と些かの心配を含めて感心したことがある。しかしながらそれは全くの杞憂だったようで、確かめていないので恐らくだが、質問した方も十分納得されて、最終的に書き込みが消えたのだろうと思う。
大賀くんが自分の気持ちを、言葉を精一杯尽くして、ストレートに語ったからこその結果。これって凄いことだと思うのよ。
彼の生き方はまさに、 “Straight, No Chaser”
“Straight, No Filter”って曲もハンク・モブレーにあるけど、大賀くんは今、「吸わないけど呑む」人だから前者かなと笑。
話を戻す。
このアヤコセンセイと大賀くんのやりとりを聞いて、本当に、演者の気持ちというか、見る側もそっちにも意識を向けてやりたいよねと思ったのよ。もちろんだからってすぐに客席に飛んでいけるかというと、状況や仕事を考えるとそうではない人が、私を含めてまだまだ多いのだけど、でも、なんというか、互いに理解し合うことが大事かなと。もし大賀くんが、行きたくても行けない人がいることに思いを馳せてくれるなら、私達だって、大賀くんのようなプレイヤー達がどれほど観客のいるステージを欲しているのか、考えを及ぼすことは容易だ。
つまりは、想像力の問題なのだ。
その想像力の話を。
昨秋以来GLAYが好きになり、年始にリリースになった動画を見た。
HISASHI TVの「カタカナ禁止飲み2022」。内容は去年に引き続き抱腹絶倒なんだけど笑、その中での、JIROとTERUの言葉が心に残った。
自分達はこうしてライブが出来てるけれど、足を運べない人が今でもいる。だから、無観客ライブとか、そういう形も続けていければいいなというJIRO。
コロナ禍で、みんな何考えてるのかなと、想像力を働かせることが大事だと思ったと語るTERU。
そんなメンバーを見て頷きながら嬉しそうに笑っている、リーダーのTAKURO。
本当に思いやりのある人達なのだなあと、ちょっと感動した。こんなミュージシャンもいる。それも大人気バンドで。
ライブやるたびにお金払ってたよね、と大笑いするHISASHI。お金もらうんじゃなくて払ってる。俺、やってること今でも何にも変わってねえよ、と。
音楽だってビジネスである以上、儲からなければ始まらない。しかし、彼らの音楽が心に響くのは、こんな、「儲け度外視でいいから、自分達が好きなことをやれてることが何より嬉しい」という純粋さがいつまでも消えないからだろう。
彼らと同世代であることを、私は心から嬉しく思う。彼らの価値観を受け入れられる自分も含めて。
そして、大賀くんとGLAYの4人が同い年であることは、偶然ではないような気もする。
とことんまで語り合うことの大切さ。言葉を尽くすことは、相手への思いやりである。発信するということにはリスクが付き物だけれど、黙ったままで理解されないよりマシだ、という時代がすぐそこに来ている。
語ろうよ、もっと。お互いの弱みを見せようよ。それはきっと、来たるべき日の強みになるから。
そんな、原稿用紙換算で12枚ちょいなことをつらつらと考えた年始だった。
月末の、大賀くんのインストバンドSensationの配信ライブが待ち遠しくて堪らない。
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