「ハヤマ君、明日予定ある?」
口数の少ない様子がいつもと違う。
「ないけど」
すると姉ちゃんは俯いたまま
「ちょっと付き合って貰えないかな」
と言った。
「どっか行くの」
「うん、まあ」
俺と姉ちゃんの沈黙の隙間を生温い夜風が埋める。
「別にいいけど」
「ありがとう。じゃ、お休み」
姉ちゃんは食べ終えたバーをゴミ箱に捨てて出て行った。すぐ後に俺のバーを放ると、微かに食い違い重なる事もなく側面に引っ掛かってぺたりと張り付いた。
ネット上でしか会話した事のない男と会う約束をしたのだと解ったのは、翌日車に乗って暫くしてからだった。例のSNSの男だと大方予想出来た。
「四ヶ月前に知り合って、趣味が同じで気が合って、何でも話せて、本人の写真見たらいい人そうでイケメンだった。そういう事?」
「うん」
そんなヤツ、フツーいないだろ。
「頭冷やすべきじゃない?」
ほの紅い姉ちゃんの横顔に、つい意地悪を言ってしまう。
「これでも随分考えたつもり」
「それでも会うって事は、やっぱり全然考えてないんじゃん」
「手厳しいな」
姉ちゃんは苦笑いを浮かべた。
「危なくないって言ったら嘘だものね」
「それで俺についてきて欲しかったんでしょ」
「そう。少し怖かった」
姉ちゃんは下を向いた。薄手の白いカーディガンと裾がひらひらしたスカート。初めて会う男のために選んだ洋服。
「解った。俺が見定めてやるよ」
姉ちゃんはくすっと笑った。
「何」
「だって急に逞しくなるから」
「それは」
何か言おうと思ったが墓穴を掘りそうでやめた。
「ありがとう」
「別に」
俺はそっぽを向いた。
駅に着いたのは昼過ぎだった。
「ドコのヒト」
「トウキョウ」
姉ちゃんは少しだけ遠い目をした。お盆休みで、それで会おうという話になったらしい。東京から特急で会いに来る男。特別の様でもあるし、普通の事の様にも思えるが、姉ちゃんは十分嬉しそうだった。
乗客の波が改札を流れてくる。つま先立ちで飛沫をかわすコトハ姉ちゃんの視線が一点に定まった。
「アレなの?」
姉ちゃんは黙っている。背の高い男は改札を出ると足取りを緩めて腕時計を見た。姉ちゃんの黒いサンダルが意を決して前に出る。俺はそれに続いた。
携帯でメールを打とうとしている男に姉ちゃんは
「あの」
と話しかけた。振り向いた男は姉ちゃんを見て、飛び上がらんばかりに驚いた。姉ちゃんは思わず吹き出した。
「良かったわ。違ったらどうしようかと思った」
姉ちゃんは笑いながら言う。男ははにかんだ様に姉ちゃんを見た。そして「はじめまして、コトハさん」
と姉ちゃんの名前を呼んだ。掠れ気味のスモーキーな声。
「はじめまして、ヒロキさん」
今まで見た事のない程ヨソイキな姉ちゃんだった。男は40前だというから二人ともいい年なのに、挨拶のレベルは中一の英語の教科書だ。
「彼がイトコの?」
男は俺を見た。
「そう」
「日記に書いてたね」
こないだ俺が黙って読んだ、あれの事だろう。
「はじめまして」
男は俺に頭を下げた。
「どうも」
慌てて俺も頭を下げた。そして男を見遣った。笑うと目が細くなり、男前がちょっと崩れて人懐こくなる。185センチのTシャツから漂う爽やかな男臭さ。
「長い乗車で疲れたでしょう。何か食べに行きませんか」
「そうだね」
男は姉ちゃんの提案に快く応じた。俺はその様子を眺めて、
「姉ちゃん、俺行くね」
と言った。
「え? どうして」
俺は姉ちゃんの腕を引っ張り声を潜めた。
「そんなに野暮じゃないから」
「でも」
「いい人そうじゃん、あの人。家には一緒に帰るから、後で電話して」
姉ちゃんは目を丸くして俺を見ていた。そして急に
「ありがとう」
と言って俺の手を握った。子供の頃俺の手をしっかり繋いでくれた筈の姉ちゃんの手が、今は何故かヤケに細くて頼りない。
「あの、俺行きます」
男に向かって俺は言った。
「コトハ姉ちゃんを、宜しくお願いします」
俺は男の目をじっと見た。
「うん、解った」
男は頷いた。姉ちゃんを一瞥し、振り返らずに改札口を後にする。カッコつけすぎだったかな。俺は一気にコンコースを走った。
中古書店やCDショップでのありきたりな時間潰しに飽きて、俺は気紛れで映画館に立ち寄った。夏限定のリバイバル上映だという。「サイダーハウス・ルール」か。
孤児院で育った主人公が、外の世界を見たいと願い、そこを離れる。初めての海、初めての恋。完璧に美しい女優のハダカの後姿が、真珠の微笑みで主人公と俺を誘うけれど、彼女には婚約者がいて、その婚約者が戦争から負傷して帰ってきて、束の間の融けあう交歓の後、主人公の恋はジ・エンド。元いた孤児院に新たなる自分の居場所を見つけて帰っていく。
結局振られたけど、初めて好きになった女と激しく愛し合えたなんて羨ましい。俺にはまだマグマを燃やすべき相手すらいない。
映画館を出るとコトハ姉ちゃんからメールが届いた。7時に駐車場で。了解。ファストフードで食事をし、それでも時間を持て余した俺は駐車場へと向かった。1時間位なら待ってもいい。姉ちゃんが車を止めたのはお城と呼ばれる公園の近くだった。熱っぽさが残る夕暮れの中に赤い車が見える。俺はそこを通り過ぎ公園へ入った。石段を登りてっぺんまで行くと、街を一望する事ができた筈だ。
上で風景を堪能して暫く経ってからだった。突然、姉ちゃんと男の話し声に気付いた。俺からは二人がハイビジョンなのだが、緑の茂る樹が邪魔してこちらの事は見えないらしい。
街を眺めるコトハちゃんの背中を、男が後ろから抱きしめている。姉ちゃんは抵抗していなかった。むしろ男に寄り添っていた。この数時間の会話と気持ちとが読める気がした。男が姉ちゃんの髪に唇で触れる。姉ちゃんは俯いたまま振り返った。姉ちゃんの頬に男がおずおずと指を掛けた。大きな手のひらが姉ちゃんの顔を引き寄せる。瞼を閉じているコトハ姉ちゃんをじっと見つめ、男はゆっくりと唇を合わせた。位置を変え、深さを変え、角度を変える。長い真空。姉ちゃんの眉が苦しそうに訴える。すると男は余計腕に力を込め、姉ちゃんの身体の曲線へ自分を嵌め込むみたいにぎゅっと抱き寄せた。申し合わせた様に重なるパズルのピース。
姉ちゃんが漸く唇をずらし、何か呟くとフフフとくぐもった笑い声を立て、男の胸にぽすんと顔を埋めた。男が姉ちゃんの耳に何か囁いた。え? と姉ちゃんが顔を上げると、男は再び姉ちゃんの唇を奪った。姉ちゃんの白い歯の裏を男の舌が長く這う。遠慮がちだったコトハ姉ちゃんの仕草が次第に大胆になり、男の背中に腕を回すと細い指で切なげにシャツを掴んだ。数時間前に俺の手を暖かく握った両手が、今は違う男の衣服を捉えて離さない。男は更に姉ちゃんを求めて首筋に口づける。途切れた唇の間から漏れる姉ちゃんの吐息が、男の耳朶に止まるのが見えた。
ダメだ。もう限界だ。俺は息を殺して物陰から移動すると反対側の石段から速攻で駆け下りた。バカ野郎。どうして最後まで見届けないんだ。何言ってる、いられる訳がない。二人の俺が言い合いをする。はあはあと上がる息を抑え、小銭を探って自販機でジュースを出した。わざと炭酸飲料を選んで乱暴に開ける。喉に流し込むとジュワッという刺激が、これでもかという程胸を撃った。不純、純愛、愛情、情欲。しりとり単語が浮かんで消える。
やがて通りをうろつく俺の携帯が振動した。姉ちゃんからだった。俺は出来るだけ平常心を保ちながら、足早に駐車場へ向かった。既に車の前に立っているコトハ姉ちゃんは服にも髪にも顔にも全く乱れがない。
「ゴメン、遅くなって。ヒロキさんを駅まで送ってきたの」
姉ちゃんは車のキーを差し込んだ。
「楽しかった?」
「うん。とても」
姉ちゃんのサンダルの細いヒールが少し傷付いて見えたが、何故か尋ねる気にはなれなかった。
その夜、ベッドの上で記憶を反芻した。見つめ、囁き、嗅ぎ、触れ、味わう。知覚動詞をフルに使わなきゃ本気で誰かを知る事は出来ない。はあ、と呆けた瞬間、携帯がとがめる様に喧しく鳴り響いた。『兄ちゃん元気にしてますか』バカ弟、このタイミングでつまんないメール寄越すな。『僕は今ちょっとツライ。勉強ヤル気が起きない』普段強気の弟の、泣き顔の眉毛が浮かぶ。勉強なんてやる気になる方がおかしいんだって。全く世話が焼ける。薄暗がりの液晶の中には、一人前に兄貴面した俺がいる。すぐ返信して携帯を閉じた。知覚動詞の話は眠りの彼方へと押しやられた。
*Part 3へ続く
初出:「月刊マイタウン」2014年
加筆・修正:2021年7月
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