文:創る『Minor Swing:1』(小説)





 夏休みの間、親戚の家に寝泊りして予備校の夏期講習へ通う事になった。期末試験後の三者懇談の結果からだった。「お前ももう少し頑張ってみたらどうだ、ハヤマ」満面の笑みでヤル気を出す親父。まあ仕方ない。中三の弟は県下でもトップクラスの高校を狙っていた。根性のある弟を持つと兄も苦労する。

 それでも、違う家族と生活するというのはなかなか魅力的な響きだった。これといった趣味もない普通科帰宅部の高校二年の日常は欠伸も出ない程平凡で、何か刺激がないと白髪でも生えそうな気配だった。それに、父の姉に当たる伯母家族には娘が一人いた。娘と言っても彼女が17の時俺が生まれているから、今や丁度二倍。記憶の中のその人が幾らまだ可愛いお姉さんでも、34なら多少は「オバサン」な訳で、だから彼女が今どんな風になっているのか、少し興味もあった。

 終業式の翌日、早速伯母の家へ向かった。久し振りに訪れる色に満ちた駅ビルを抜けて南口へ出ると、鉄板が落ちてきたみたいな暑さと共に「ハヤマ君」と呼ぶ声が降ってきた。目を細める。

「解る?」

 短めの髪に緩いパーマがかかったその人は親しげに話しかけた。

「コトハ姉ちゃん?」

「そうよ。変わり果てて解らなかったなんて言わないでね」

 姉ちゃんは顰め面をして俺を睨む真似をした。

 確かに姉ちゃんは昔とは違っていた。でもどう見ても三十前にしか思えなかった。いや、三十というのがどんなものなのか良く知らないので、正確には何とも言えないが、とにかく、予想以上にずっと若くて、俺は困った。

「冷たいものでも飲む?」

 淡いグリーンが姉ちゃんの瞼の上を軽く縁取っている。

「ううん、大丈夫」

「そう。じゃあウチに行こうか。明日からよね、予備校」

 そうだった。現実的な言葉で我に返り、ずり落ちそうになっているバッグを肩にかけ直した。

 駐車場で赤いコンパクトカーに乗る。途端に姉ちゃんの匂いが助手席を包んだ。香水の様な、化粧品の様な、ちょっと甘いけど微かに鋭い、吸い込まれそうな匂い。

「クーラーつけるね」

「あ、いい、大丈夫」

 咄嗟に目を逸らし窓を全開にした。

「そう? よかった。私もクーラーは嫌いなの」

 車は気持ちいい加速をつけ、風と鼓動を巻き込みながら、俺と姉ちゃんとを揺らして走る。




 見覚えのある路地を曲がり家に着くと、伯母さんが出迎えてくれた。

「すっかり大人になっちゃって」

 以前より若干皺が増えてる気もするが、明るい声が同じで何だか嬉しかった。

「二階の、コトハの隣の部屋を使ってね。ちょっと狭いけど、その分自由にして」

「ありがとうございます」

「あら、敬語なんて使わないでよ。暫く一緒に過ごすんだもの、堅苦しい事は抜きよ」

 伯母さんは笑った。

 二階へ行く。小奇麗でさっぱりした部屋に、レースと水色のカーテンが二重にかかっていた。小さな机とハンガーラック、目覚まし時計に簡易ベッド。フローリングにひんやり横になると、午後の乾いた風が網戸を抜けカーテンを撫で、俺にまで手を伸ばしてくる。

 流行色のキャミソールの裏では超合金のブラジャーが頑丈にガードしているにせよ、コトハ姉ちゃんの薄い皮膚を上下する息遣いは、夏の光を弾き飛ばして俺を刺した。

 寝転がったまま腕を伸ばしてカーテンの裾を掴む。白くありふれたレース模様が、見た事もない筈の姉ちゃんの下着と重なった。





 予備校は歩いて数分の所にあった。講義開始十分前の朝、顔見知りのいない、同い年ばかりが集う空間にはざらついた違和感がある。俺はさり気なく移動しながら空席を探した。

「あ」

 小さい声。かしゃんと落ちる音。振り返ると、後ろの足元にペンケースが落ちている。俺のバッグがぶつかり、滑り落ちたらしい。

「すいません」

 声にならないような声でそう言い、俺はそれを拾った。目を合わさず頷く色白の彼女は少し笑顔を作った様に見えた。細い腕。斜め前がぽつんと空いているのに気付く。俺はそこに座った。

 軽くオリエンテーションが済むとすぐに古典の時間だった。予備校に住み着いてしまった様な容貌の先生が、高めの教壇から説明を始める。とうとうと流れる声には柔らかく、自信に満ち溢れていた。ここが高校ではない事をあらためて悟る。

 滴る炎天下に打たれながら家に戻ると、伯母さんがそうめんを茹でてくれていた。南瓜の天ぷらは衣が薄く、サクサクとして本当に美味しい。昨夜夕飯の時伯父さんに

「爽快な食いっぷりだなあ」

 と笑われたが、伯母さんの料理は一つ一つがとても丁寧に感じられた。

「コトハももう少し料理をしてくれないと困るのだけどね」

 伯母さんが俺に麦茶を注いでくれる。

「しないの」

「するにはするんだけど、とても結婚できるレベルじゃないわ」

「結婚するの?」

 俺の素っ頓狂な声に伯母さんは笑った。

「嫌ねえハヤマ君。して貰わないと困るじゃない。英会話学校の事務兼助手なんて仕事も中途半端だし。一人娘だからって、お婿さんを貰おうって考えはうちにはないのよ。なのに縁遠いというか」

 十七の俺がヘラヘラ笑って誤魔化すべきところでもなさそうな気がして、黙って麦茶を啜った。

 夜、部屋で課題をしていると姉ちゃんが入ってきた。

「ハヤマ君、アイス食べない?」

 風呂上りらしくメンズと思しき特大のTシャツから伸びた腕が長い。

「コトハ姉ちゃんって身長いくつ」

 アイスを受け取りながら俺は聞いた。

「166」

「それって大きいよね」

「同年代ではね。ハヤマ君は?」

「179」

「へえ、今の高校生っていいカラダしてるのね」

 姉ちゃんはガサリとアイスの袋を引き裂くと、円柱形のバーへ無防備に吸い付き口一杯にアイスを頬張った。そして一瞬眉間を寄せると、

「ううん、冷たい!」

 と言って丸い唇を離した。

「行儀悪いってお母さんに怒られるんだけど、これが気持ちいいのよね」

 化粧をしてない姉ちゃんの顔には、ポニーテールだった頃の面影がまだ十分にあった。

「伯母さんが心配してたよ」

「何を」

「結婚しないのかって」

「ハヤマ君にまで言ったの?」

 姉ちゃんは少し恥ずかしげに、少し呆れ気味に笑った。

「私だって行きたいけど、相手がいないのよ」

「誰も?」

「とも言えないけど」

「じゃあいるの?」

「とも言いにくい」

 俺は些かムッと来た。

「怒らないでよ。本当なんだから」

 姉ちゃんは俺の頭を撫でた。完全に子供扱いだ。シャンプーの匂いに身体が火照る。俺はますますムッとした顔しか出来なくなって、仕方なくアイスをがむしゃらに頬張る事に専念した。




 

 翌日は早目に予備校へ行った。端の席に座ると窓際に流れる朝の風がヤケに眠気を誘う。暫くすると昨日のペンケースが入ってきた。控えめな足音でこちらへ近付き、俺の前に座った。跳ね上げ式の椅子がささやかにギイと鳴って、彼女の軽さを簡単に支える。切り揃えられた髪の終わりから滑らかな項が覗いていた。ぶつけたりしたら折れそうな首が肩まで続き、心もとない幅を作っている。それを降りて行く二の腕の線は、冷房を避けるためのカーディガンにするりと覆われていた。

 午前の部が終わって昼休みになる。今日は午後もあるため昼食持ちで来ていた。伯母さんが作ってくれたおにぎりを持って休憩室へと向かう。ペットボトルのお茶を自販機で出しているとペンケースが入ってきた。目を合わすとも合わさずともといった調子で、同じ様に隣の自販機からお茶を出している。そして俺が座ったテーブルの斜め向かいのテーブルに自分のバッグを置いた。

 俺は彼女をチラチラと観察した。冷たい感じではないが、とっつき易いイメージでもない。共学じゃ余り見かけないタイプだから、この近所にある女子高の生徒かもしれない。箸の持ち方がキレイだ。携帯には幾つかのストラップが付いている。その携帯が振動してメールの着信を伝える。画面を開く彼女を横目で見ながら、俺は休憩室を後にした。

 予備校からの帰り、携帯音楽プレイヤーのバッテリーが切れた事に気付いた。メモリー型なので充電にはパソコンが要る。家に戻って尋ねると伯母さんは

「コトハの部屋にあるわよ」

 と言った。

「じゃあ帰ってきたら借りるね」

「遠慮しなくていいわよ。必要ならどんどん使って」

 伯母さんはさばさばと言った。

 コトハ姉ちゃんの部屋へ入ると、溜まった空気が姉ちゃんの香りで塞がっている。窓を開けた。乾いた風が入り込んで、古い映画のポスターやカレンダーをかしかしと揺らした。パソコンの電源を入れる。お洒落な画面が現れた。左脇にあるアイコンは少なく、部屋のインテリアと同じ位シンプルだ。端子を繋ぐ。上手く接続出来たみたいだ。突然、ペンケースの彼女の背中が頭に浮かぶ。Tシャツの上からブラのストラップが薄く写っていた。妙に脆く見えた。姉ちゃんのと違って。

 時間を持て余した俺はインターネットに接続してみた。高速。左に履歴欄。今朝既にパソコンが開かれているのが解る。クリックを繰り返していると、異質な位のフレンドリーさが目立つ画面が現れた。幾つかの写真とニックネームっぽい名前と、日記などと書かれた部分。ああ、これがあのSNS―ソーシャル・ネットワーキング・サービス―ってヤツか。前にテレビで見た事がある。元々は出会い系サイトから発展したらしいが、今は日記を書いたり他人の日記にコメントしたりと、ブログの延長上にある交流手段らしい。ヘルプ欄を開く。利用対象18歳以上。俺は部外者。コミュニティというのがあって、ネットでのクラブ活動みたいなものらしい。へえ、コトハ姉ちゃん、こんな事してんだ。

 姉ちゃんの繋がりは十二人。女性の方が多そうだ。数日前の姉ちゃんの日記を開いた。『今日はイトコの高校生がうちに来た』俺の事だ。『夏休みの間予備校に通うんだそうだ。17歳。羨ましい。私にもこんな時期があったんだ』こそばゆい心地よさが身体に灯る。

 調子付いた俺は姉ちゃんのクラブ活動も拝見する事にした。映画や音楽、車に美容、英会話関連の題目が並ぶ中に、抽象的な名前のものがあった。ちょっと躊躇ったが、好奇心に勝てず姉ちゃんに成りすまして門を叩いた。クリックして現れた画面を見る。部員は姉ちゃんともう一人だけ。内容の説明は英文で、やはり抽象的な事が書いてあり、俺の覚束ない能力では何の事だか理解できなかった。

 俺はもう一人の奴を凝視した。載っているのは顔写真ではないが、何故かピンと来た。男だ。姉ちゃんが言ってた、付き合っている奴がいるともいないとも言えないって、こいつの事か。呼吸がこめかみに上ってくる。

 鼻先をくすぐる湿度に気付いて、窓の方を向いた。夕立色した鉛の空。ヤバい。俺は充電不十分の端末を引っこ抜き、画面を元に戻して窓を閉め、慌てて部屋を出た。




 夕飯を終えてコトハ姉ちゃんが部屋に戻る時、俺は一緒に階段を上りながら

「姉ちゃん、今日伯母さんに言って、パソコン使わせて貰ったから」

 と言った。姉ちゃんは一瞬戸惑った様に

「え」

 と言ったが、すぐに

「いいわよ。いつでも使って」

 と続けた。

「ネットで変なページ見てたんじゃないでしょうね」

「変なページって」

「アダルトサイト」

「見てないから」

 姉ちゃんは笑いながら部屋に入った。

 俺の中の34歳像とは一万光年位かけ離れているコトハ姉ちゃん。あのバーチャル男とあそこでどんな話してるんだ。姉ちゃんの部屋から漏れ聞こえる渋いジャズのマイナーコードが、空洞な俺の身体にこだました。



***Part 2へ続く。



初出:「月刊マイタウン」2014年

加筆・修正:2021年7月


 






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