文:創る『Minor Swing:3』(小説)





 あの日を境にしても俺への姉ちゃんの態度は勿論変わらず、朝階下に行くといつもの笑顔で

「おはよう」

 と声をかける。夜は夜でアイスを一緒に食べたりするが、音楽やテレビのとりとめのない話に終始するだけだった。あの男とその後どうなのか、知りたいけれど聞けない。身勝手な俺は取り残された気分だ。

 予備校ではペンケースの彼女はあれ以来決まって俺の前に座った。悪い気はしなかったが、物理的距離が近い程逆にとんでもなく高く厚い壁がある様で、少し寂しい気もした。

 夏休みも後半に差し掛かろうというその日はテストが行われる事になっていた。だが前日に珍しく勉強したのがいけなかったのか、うっかり筆記具を忘れてきてしまった。こんな日に限って。バッグをガサガサ探していると

「あの」

 と前の席から声がする。ペンケースだった。どこにでも売っていそうなシャーペンと消しゴムを俺の目の前に置いて彼女は

「良かったら」

 と言った。

「え」

「使って下さい」

 俯き加減に彼女は続け、頭を下げ気味にぴょこんと向き直った。

「ありがとう」

 小声で言う俺に彼女は半身だけひねらせて返事をした。分厚い壁が少し崩れた気がした。

 試験終了後、俺はすぐ彼女に話しかけた。

「どうもありがとう」

 彼女は遠慮がちに首を縦に振ると、俺の手から筆記用具を受け取り、それをペンケースにしまった。そして

「じゃあ」

 とだけ言って、足早に教室を出て行ってしまった。俺が試験の間中考えていた何百通りもの魅力ある台詞も聞かずに。頭の中ではどんなキワドい妄想でも出来る癖に、現実の女の子の前じゃ口ひとつ満足にきけやしない。俺は自分に舌打ちしながら彼女を見送った。

 不完全燃焼のまま家に戻るとコトハ姉ちゃんが帰っていた。

「珍しいね。どうしたの」

「午後休み貰ったの」

 居間で雑誌を読む姉ちゃんの方を見ずに

「出かけるの?」

 と俺は尋ねた。

「そのつもりだったんだけどね」

 姉ちゃんは慌てる素振りもなくのんびりと答える。そして急に顔を上げると

「ねえ」

 と呼びかけた。

「今夜ドライブに行こうか」

「え」

「ね、行こうよ。決まり。夕飯食べたら支度して」

 姉ちゃんはそう言うとさっさと部屋に戻って行った。庭を見ると、咲き誇るヒマワリの傍を気の早い赤とんぼがそよぎ始めている。




 コトハ姉ちゃんの車に乗り込んだのは8時を回った頃だった。途中のコンビニでペットボトルのお茶を買う。何だか遠足気分だ。薄暗闇を裂いて滑る姉ちゃんの赤い車。国道を折れて山道を幾つか曲がると、小奇麗なホテルの広い駐車場に止まった。

「どう? キレイでしょ、ここからの夜景」

 車から身を乗り出して見ると、無数の光がキラキラと瞬いている。

「全国の夜景百選にも選ばれたみたいね」

 家々の光、ビルの光、慈愛の光、欲望の光。開いた窓から流れ込む夜風が気持ちよかった。

「姉ちゃん」

「何?」

「その後どうなの」

「何が」

「こないだのオトコ」

 自分でも不思議な程自然に問いかけていた。

「本当は今日、あいつと約束してたんじゃないの」

 すると姉ちゃんは夜空を見ながら笑った。

「残念ね。そうだったら良かったけど。あの人はあれ以来、会いたいとは言うけど、会いに行くとは言わないわ」

 ハンドルから手を離した姉ちゃんはぐうっと大きく伸びをした。

「私、ネットに日記を載せているのね」

 知っているとも言えないから黙ったまま言葉を待つ。

「だから人の日記を読ませて貰う事も多いんだけど、ある時思ったの。ネットの日記に本当の姿や本音を書くヤツなんて、いないんじゃないかって」

 姉ちゃんは一拍置いた。

「例えば、朝起きたら昨夜出会った男が横に寝ていたなんて載ってたとしても多分嘘。書いた本人は結構平凡で、刺激的な毎日を送りたがってるOLとか主婦だったりするのよ。本当にそんな事があったら、ネットの日記に気安く書けないと思う。他にも、今日はお洒落なカフェでランチしたってブログに載せてる人は、もしかしたら家では特売のインスタントラーメン食べてるかも知れないし、東京まで家具を買いに行く様子を載せる一見カッコいい独身貴族には、案外本当の友達が一人もいなかったり。みんな装っているだけ。生活や現実と向き合いたくないから、自分の中のちょっと見栄えのいい部分だけを取り出して、上手く紡いでるのよ。別にそれが悪い訳じゃないけど」

 唐突な話に戸惑った。でも姉ちゃんの言いたい事は何となく解る気がした。

「どうしてそんな風に思ったの」

 姉ちゃんはペットボトルのお茶を飲んだ。喉元で鳴ったささやかな音が姉ちゃんのTシャツの胸元を通過する。

「自分は寂しがり屋だとか甘えさせて欲しいとか、売り込んで自己紹介に書く人がいるけど、本当に寂しくて誰かに甘えたり頼ったりしたいと思ってる人間は、そんな事絶対言えないものだから」

 姉ちゃんは唇に残った液体を手の甲で拭った。




「そういうバーチャルな世界が何だかバカバカしくなって、もうやめようって思った時、音楽の話題でヒロキさんと繋がったの。それからは沢山の言葉を交わしたわ。プライベートな事もね」

 姉ちゃんは微笑んだ。

「ヒロキさんとはパソコンの中でも、互いに本当の自分でいられるってずっと信じてた。だから会いたいと思ったし、リアルな私も知って貰いたかったの。だけど」

 姉ちゃんは俺を見た。

「それは私の勘違いで、彼も自分を見栄えよく飾り立てていたかっただけなのかもね」

 カップルを乗せた隣の車のカーステレオから古い洋楽が流れている。

「考えたら、毎日ネットでは言葉を交わすのに、私、彼から一度も電話を貰った事がないの。こっちからした事はあるんだけど、二度とも留守電だった。出会ってるのに、声が聞きたくならないなんておかしいでしょ?それで思ったの。彼は私に、自分の本当の姿を知られたくないのかなって。不思議な事じゃないわ。華やかな虚像を自分の真実だと思わせたい人は多いし」

 姉ちゃんは自分で自分の肩を抱いた。

「彼は、人と心をぶつけ合う様な付き合いはしたくないのかも知れない。はぐらかしながら上っ面だけで生きる方が楽だもんね。その代わり、私程度に付き合う女は何人も作ってさ」

 今度は俺が姉ちゃんを見た。

「ヒロキさん、私と同じ様に、ネットで知り合った他の女とも会ってるんだって。皮肉だけど、それも彼の日記で解ったのよ。彼は彼女達の事を友達だとか特別じゃないとかって言うけど、それだったら私だって同じ存在なのよ。漸く気づいた。全く、つくづく見る目がないわよね」

 姉ちゃんの横顔を照らす満月を過ぎた月が、すっ呆けた顔で俺を眺めている。

「やめろよそんな男。好きになる価値ないし、そういう奴は誰とも誠実な関係なんか結べない」

 腹の底から悔しかった。自分の浅さが。あの時どうして一瞬でもあいつをいい奴だなんて思ったのか。やがて姉ちゃんは

「そうね」

 と頷いた。

「ちゃんと私に向き合ってくれる人でなきゃね」

「そう、俺みたいに」

 姉ちゃんは笑った。そしてまた俺を見て

「ありがとう」

 と言った。

 あのさ、仕事してても、スッピンでアイス食べても、ネットの日記に俺の事書いても、初めて会った男とキスしても、それ全部でコトハ姉ちゃんなんだよ。少なくとも姉ちゃんには、バーチャルもリアルも本当も嘘もないから。そう思ったが口には出さなかった。

「もうちょっと飛ばす?」

 姉ちゃんが言った。

「いいよ」

「じゃあ高速へ乗ろう」

 コトハ姉ちゃんは笑顔で威勢よく言うと、愛車のエンジンを思い切り吹かした。




 

 ペンケースの彼女に会えたのは週明けだった。いつもの様に俺の前に座り、静かにテキストを開く。もうすっかり見慣れた風景だが、実は彼女に会えるのもあと数日だ。夏休みが終わったら、絶対に永遠に彼女とは会えない。そう思ったら何だか堪らなくなってきた。そんなんでいいのか。いい訳ない。午前中の講義が終わった後、俺はおどおどしながら彼女に声を掛けた。

「あの、こないだは、どうもありがとう」

「あ、いえ」

 意外だったのか、彼女は微かに驚いている。

「今日ってもう終わり?」

「はい」

「迷惑でなかったら、何かおごらせて」

「え、悪いです」

「そんな事言わないで。あの、嫌だったらいいんだ。いいんだけど、でももし、嫌じゃなかったら」

 聞きながら情けなくなった。会話力ゼロ。走って逃げたいくらいだ。しかし、彼女は恥ずかしそうに俯いて

「それじゃ、あの、近くに駄菓子屋さんがあるんですけど、そこで、一緒にアイスでも食べませんか」

 と言った。

「え、あ、うん」

 しどろもどろで返事をし、半歩先を行く彼女の後を追う様にしてふわふわと歩き出した。彼女の髪から漂ってくる、柔らかい気体。表では剥き出しの太陽がニヤニヤとこちらを見下ろしている。

 予備校を出て裏へ回る。二軒程先に小さな駄菓子屋があった。店先から中に入ると、埃っぽくて懐かしい、ワクワクする匂いがした。小さい時弟とこういう所によく来たのを覚えている。彼女がアイスボックスのガラスの蓋を開けた。どれにしようか迷う顔は小さな子供みたいだ。奥に陣取るおばあさんに代金を渡して、俺達は店先のベンチでアイスを食べた。木ベラのスプーンでアイスを掬う彼女がやたら透き通って見える。

「こんな店、よく知ってるね」

「ここ、学校の近くなんです」

「もしかして、K女子高」

「はい」

 予想通り、エリートなお嬢さん学校。

「頭いいんだ」

「私、帰国子女なんです。それで入れただけで」

「そんな事ないよ。凄いよ」

「全然。私、恥ずかしいけど、現代文が全く出来ないんです。ウザいとかキモいとか。最初意味が解らなかった」

 俺は吹き出した。

「それ、教科書載ってないから」

 釣られて彼女も笑った。

「あの」

 何か思い出した様に彼女はスプーンの動きを止めた。

「ひとつ聞いてもいいですか」

「なに」

「下の名前、何て読むんですか」

「え、何で俺の名前知ってるの?」

「後ろから答案を集める時に見て、それで…」

 そしてハッとした様に

「スイマセン、黙って見ました」

 と言って頭を下げた。

「そんな。気にしないで。あのね、勇馬って書いて、ハヤマって読むんだ」

「ハヤマ」

 彼女は俺の名前をリピートして

「キレイな名前」

 と付け加えた。

「そうかな。初めて言われた」

「キレイです。それに、漢字って凄いですね。いろんな読み方があって、いろんな名前があって」

 彼女は顔中で笑った。可愛いと思った。

 肩には黒い薄手のカーディガンがかけられ、両腕が余計に細く見えた。ピンクと白のキャミソールを重ねた胸元や首は牛乳みたいに真っ白だ。左の鎖骨に小さなほくろがあった。ほんの少し手を伸ばせば届く距離。だけど、俺はまだそこに触れるだけの術を何も知らない。あの男がコトハ姉ちゃんにした様な、互いの五感を根底から震わす様な術を。今すぐにそれを知りたいとも思う。でも、今すぐじゃなくてもいい様な、そんな気もする。

「あの」

「あ、ごめん、何」

「私の名前は、言わなくていいんですか」

 女の子にこんな事言わせるなんて。気が効かないにも程がある。我ながら痛すぎ。何やってんだ、俺。

「ゴメン。あの、教えてくれる?」

 彼女は白い歯で笑い、最後のスプーンの一口を掬った。

 日差しの滴を身体中で感じ、俺は残ったアイスモナカを喉の奥へ一気に流し込む。

 甘いだけの17の夏が口一杯に広がった。

 






初出:「月刊マイタウン」2014年

加筆・修正:2021年7月



最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。











0 件のコメント:

コメントを投稿